【私】について3

心と身体を一から習う

人は思考君を使うことで事象を認識しています。普段何気なく使う【私】も思考君による自己認識でした。しか〜し それは本当に【私】なのか、どうなのか? それでは、悟空、悟浄、ウーロン? 摩訶不思議大冒険の続きへ、レッツゴーッ(^_^)

ロボットには埋め込めなかった……(*_*)

奇才・天才オヤマーコフ博士が、人と同じような思考機能を持ったロボットを制作しました![+_+]!

ロボットは人と同じように、

  1. 情報を受ける(入力)
  2. 内部データと比較・分析する
  3. 認識する
  4. 反応する(出力)

ロボットも人も情報を受け取り、反応します。でも、このロボットと人の間には根本的な違いがあります。

博士は嘆いて言っています。

ロボットは ―― 反応そのもの―― であり、【私】なる心(主観性)を持っていないのだ〜(*_*)

主観性とは、主体を観察する性質? つまり客観性?
客観性のないところには主観性は生まれないのです。
主観客観はコインの裏表。博士は反応を含めすべてを客観視する【私】なる主観性を持ったプログラムを作れなかったのです。

博士は続けて言っています。

ロボットは自分のすべての処理を見渡すプログラムAを作っても、そのプログラムAを見渡すプログラムBを作る必要がある。するとプログラムBを見渡すプログラムCが必要、すると……と無限に続くことになるのだ〜(*_*)

天才といえども【私】なる「主観性。すべてを客観的に見渡す視点」を作ることができなかった(T_T)

【私】は「意識」(・O・!

おそらくあなたには、【私】なる「主観性」があることでしょう。それともゾンビやロボットのように【私】なる主観性もなく、ただただ無意識に反応すだけの存在でしょうか? そんなことはなく、意識があることでしょう。
そうそう、ロボットやゾンビと人との間にある根本的な違いは、簡単に言えば「意識」があるかどうかなのです。

「意識」こそ【私】なる「主観性」であり、「意識」こそ【私】なる「すべてを客観的に見渡す視点」であるのです。意識しているとき、つまり「意識」が在るとき【私】が在るのです。【私】とは「意識」そのものなのです。

【私】は、思考君でもなく、身体君でもなく、それらを使って主観的体験をしている存在「意識」なのです(・O・!

そうじゃ。意識なる【私】は、思考でも身体でもない。じゃがしかし、主観的に物事を認識・体験しておると認識しておるのは思考の側なのじゃ。


意識としての【私】は、認識・体験に関わる事無く、物事のあるがままに気付いておる観照者なのじゃ。

♨ 2020/02/29

【私】≠「私の状況」―(真_我)≠(自_我)

思考君が自己認識のために機械的に貼り付けていった名前・住所・職業・体格・性格……などのレッテルの集積結果によって作り上げた自分像(アイデンティティ)は「私の状況」であり、決して【私】ではないのです。「私の状況」は思考君の自己認識であり、【私】の自己認識ではないのです。
思考君による自己認識はすべて「私の状況」であり、【私】ではないのです。一枚残らずすべてのレッテルは、「私の状況」を説明するためのものなのです。

レッテルを貼り替える度に「私の状況」は変わりますが、【私】という存在がコロコロと入れ替わることはないのです。

「私の状況」がどの様に変わろうが【私】は【私】なのです。

意識としての【私】に状況は無い故に、ここで言う「私の状況」の「私」は、自分像としての「私」を示しておるのじゃろう。


じゃがこの表現では、意識としての【私】なのか、自分像としての「私」なのかの混乱を招く事に成りかねん。故にここでは「私の状況」とではなく、「思考君の状況」とでもした方が良いじゃろう。

♨ 2020/02/29

すべての存在物事は、実体がない

―― 諸法無我 

『諸法無我』をそのまま「すべての物事は、私が無い」と訳しては意味が通じ難い。故に「すべての物事は、実体が無い」などと『縁起』の教えと結びつけて訳したのじゃろうが、そうではないのじゃ。


『諸法我』は実際には『諸法我』であり、その真意は今正に説明しておる通り、「諸々の「思考の状況」は【私】ではないという教えを示しておるのじゃ。

♨ 2020/02/29

私の状況思考君の状況」(アイデンティティ)も、思考君の働きがあるだけで、「私の状況思考君の状況」という何か実体があるわけではないのです。すべては、他との関係性の中にあり、それが常に変化しているだけなのです。
「縁起」を知らず、「無常非常」も「無我非我」もわからずに、「私の状況思考君の状況」=【私】であるとイコールで結びつけ、思考君による自己認識が【私】であると思考君が認識していることを、古代インド人は「無明」と言い表しているのです。

「この言葉君が示す意味は、人のすべての苦しみは、この認識から生まれるということです(@O@!

思考君の働きを超えた存在(・O・!!

思考君で【私】は「意識」です、と認識しても、思考君を使っての自己認識は、すべて「私の状況思考君の状況」です。
つまり、【私】とは思考君の働きを超えた存在であり、思考君にとっては自分ではない別の存在であり、本当の意味では理解も認識もできない存在なのです。

即ち……

科学者は「意識」がどのように生じているのか、「意識」とは何なのかを、論理的思考により説明することは永遠に不可能だということでしょう(・O・!

意識やその中で生じる色・音・香・味・感触・思考・感情……これらの主観的体験のすべては、データに置き換えることのできない質感―― クオリア ――です。
つまり博士の作ったロボットが、いくら赤色や言葉などの情報に反応するとしても、人のように赤色という質感を見ているのでも、音という質感を聞いているのでもないのです。

もちろん、これらがいったいどのように生じているのかを、科学は何一つ解明することができないのです(@_@)

私の状況思考君の状況」を見ている【私】により「私の状況思考君の状況」は認識されている。

先にも言うた事じゃが、「思考の状況」を観ておる意識なる【私】とは単なる気付きであり、何かを判断する様な認識力を持ってはおらぬのじゃ。あくまで認識機能を備えておるのは思考の側なのじゃ。

♨ 2020/02/29

摩訶不思議大冒険は、まだ続く……☆☆☆


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