【私】について5

心と身体を一から習う

意識しているとき、【私】が思考君の働きを見ていることです。「意識」が在るとは、【私】が在ることです。いつでもどこでも【私】は存在しています。がっ!! それだけでは【私】って何者(・_・? 本当の意味で【私】に会いに行きましょう(^_^)

思考君の働きを完全に止めること(・_・)

【私】とは「意識」であると探し出しても、思考君の陰から覗いている存在【私】に出会ったとしても、やっぱり【私】とはいったい何者であるのか?」という質問の答えには辿り着くことができないでしょう。
いったい全体どうすれば本当に【私】を探し出し、【私】が何者であるのかを知ることができるのでしょうか?

人が【私】に出会うためには、思考君の陰からちょこちょこと覗くのではなく、完全に表へと出てくる必要があるのです。つまり思考君の働きを完全に止めたとき、元々在ったものが顕わになるということです。

これがいわゆる【悟った状態】であり、深い瞑想を通して体験する事が出来るのだということです。しかし! 知っての通り、この思考君の働きを完全に止めるというのが……む・む・難し~い(*O*)

瞑想とは、思考君の走りを止めていく作業のこと。

どうしてこうも人は、思考君の働きを完全にコントロールできないのでしょうか(?_?)

思考の働きを完全に止める事は不可能なのじゃ。何故なら止めようと努力しておる当人がそこに居るからなのじゃ。詰まる所、止めようとする当人が居なくなって後、それは自ずから止まるのじゃ。


思考が止まる「無我の状態」「三昧の境地」などと呼べる状態は有るが、「悟った状態」「悟りの境地」などと呼べる状態は無いのじゃ。真に【私】を悟ったならば、それはあらゆる「状態」を越えておるのじゃ。

♨ 2020/03/03

思考君を止める ― 欲から自由になるの法

その7 ― 思考君を観るの術

ある物事に対して自分の思い通りにしたいという「欲」を解決しようと勝手に走りだす思考君を、観察することで止めることです。

思考君が走っているときは無意識なときであり、箸っている事に気付いた(観た)時点で思考君は止まります。

瞑想を深めていくには、この作業を繰り返します。

瞑想法は「観る方法(観察の瞑想)」と「止める方法(集中の瞑想)」の2つに大別出来るのじゃ。この2つは厳密には区別出来る方法ではないのじゃが、区別しておく方が取組み易いじゃろう。


「観る方法」であるならば、思考を止めようとする事なく、ただ放置しておく事を説明するべきじゃ。思考を止めようとする事とは思考の仕事である故に、その事自体が、思考に働く動機を与え続ける事に成るからなのじゃ。


「止める方法」であるならば、思考を放置しておく事なく、ただ止めようとする事に専念するべきなのじゃ。思考の働く動機を与え続ける事に成るのじゃが、こちらは思考本人のコントロール能力を高めてゆく方法なのじゃ。

♨ 2020/03/03

思考パターンをリセットする

思考君を観るとは、情報を受け取った後に無意識 ―― 自動 ―― に反応した思考君を意識することです。するとその後には無意識に反応することが徐々になくなっていきます。つまり思考パターンを起こしていたプログラムを削除し、リセットすることになるのです。

確かに思考を観ておくことによって、つまりは【私】と思考との一体化を止める事によって、「快楽を欲し求め、苦痛を怖れ避ける」という思考パターンは止んでゆき、そこに平安を感じる事じゃろう。それは成長と言える。


じゃが、思考パターンを止める事へ関心を向けるべきではない。それは本筋ではない。自動的に一喜一憂する思考から解放され平安を感じるのは誰じゃろう? 思考じゃ。


思考へ関心を向けるその行為が、思考に仕事を与え続ける事に成るのじゃ。試みるべきは、欲望や恐怖に反応する思考自体から関心を離し、思考との一体化を止めてゆく事なのじゃ。

♨ 2020/03/03

思考パターンをリセットしていくその分だけ、思考君をコントロールできるようになるということで、瞑想をより深めやすくなり、【悟った状態無我の状態】も体験しやすくなる(・_・)

確かに思考パターンが止まってゆくその分だけ、無自覚的思考にコントロールされる事は止んでゆき、そこに自由を感じるじゃろうし、無我状態も訪れ易く成るじゃろう。それもまた成長と言える。


じゃが、思考をコントロール出来る様に成る事へ関心を向けるべきではない。そうじゃ。自動的に一喜一憂する思考から解放され自由を感じるのもまた、思考に過ぎぬからなのじゃ。


思考へ関心を向けるその行為が、思考に活力を与え続ける事に成るのじゃ。試みるべきは「思考」と【私】との間には何の関係も無いという、真実に留まる事なのじゃ。

♨ 2020/03/03

そして……ゲームクリア(^_^)v

つまり思考君を完全にコントロールするには、すべての思考パターンをリセットする必要があるのです。
それはまるで、鬼さんが繰り返し後ろを振り返り、走りだす思考君を観ることで、一人ずつ思考パターンを捕まえていくかの如く……。それはまるで、無意識という闇に、意識という光が少しずつ少しずつ射しこみ、明るさを増していくかの如く……。するとあるとき、突然にして……

すべてが光(意識)に変わる(・_・!!

つまり思考パターンの全リセットが起こるようなのです。これが「光明」を得るということであり、「悟り」であり、「悟った人」になる(・_・!! ということでしょうかね。

思考君が完全に止まるということは、【私】に出会いたい、【私】が何者であるかを知りたいと思っている張本人である思考君はいないのです。正に思考君を越えたところに完全に純粋なまったき意識である存在【私】に誰が出会うでもなく、【私】を体験し……

【私】が何者であったかを思い出す(・_・!

ここで話を整理した方が良いじゃろう。

悟りの要諦
  1. 私(真我、意識)を悟るためには、心(自我、思考)の本質を如実に観ることによって、心の作用を止滅せねばならぬ。
  2. そのために「観る方法」と「止める方法」は説かれておる。
  3. そのために「思考を完全にコントロールする」必要も無ければ、「すべての欲望と恐怖への思考パターンを削除する」必要も無い。

心の本質とは、実体が無いという非存在性じゃ。自我は心による妄想であり、元々存在しておらんかったという事実を見破られる事により、泡の如く消え去るのじゃ。
それは「縄」を「蛇」であると錯覚しておる者にとって、「縄」という真知を得るためには、「蛇」は心による妄想であり、元々存在しておらんかったという事実を見破り、「蛇」という架空の知識を破壊せねばならぬ、という事に同じなのじゃ。

「観る方法」は欲望と恐怖へ向かう思考自体から関心を離す練習であり、「止める方法」は欲望と恐怖へ向かう思考を止める練習なのじゃ。

……でじゃ。そもそも思考を完全にコントロールするなど不可能なのじゃ。仮に可能として「思考を完全にコントロールする」と言うのは誰じゃ? 思考じゃ。そう思い込んでおる思考自体を滅する。それが必要な事のすべてじゃ。

光明を得るとは、無明(自我)を破壊した結果であり、そこには「得る何か」も「得る誰か」も「得る働き」も無い、それについて言える事は何も無いのじゃ。


ただ、ただ、【私】なのじゃ。

♨ 2020/03/03

アイデンティティを【私】に置こう(・_・!

人に生まれるどんな欲も掘り出してみると、「安心したい」という根っこ欲が埋まっているのでしょう。それを満たすには「【私】とはいったい何者であるのか?」という根源的な問いに答えを出す必要があるのかもしれません。

そうじゃ。

♨ 2020/03/03

そのためには、アイデンティティの拠り所を思考君の働きによる「私の状況思考君の状況」に置くのではなく、【私】に置くことから始めてみましょう\(^O^)/

まったく……


まったく……。


ゴータマ・ブッダは最期に「自己を拠り所にしなさい(自燈明)、真理を拠り所にしなさい(法燈明)」と説いたと伝わる。


拠り所を【私】に定めたならば、それで十分なのじゃ。この言葉の本意を掴み取るのじゃ。

♨ 2020/03/03


ジリリリリリリッ!

このレッスンはあなたが設定していた時刻に鳴り響くアラームなのかもしれませんよ(^O^)


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