自由について

心と身体を一から習う

宇宙を貫いて働く「自業自得の法則」。この法則は知ろうが知るまいが、信じようが信じまいが、常に働いているようですが、この法則を信じる人っていつでも幸せを感じやすく(^O^)、そして自由を感じることができるんです(^O^)v

自業自得の法則なくして自由なし(・_・?

「自業自得の法則」―― あなたが自他に与えたもの(考えたこと)は、必ず自分に返ってくる。
この法則と自由とは、切っても切れない関係にあるのです。この法則のお蔭で、人には自由意志があることが成立するともいえるかもしれません。

不自由からの解放\(^_^)/

  • 思考君を通さない限り、自分の人生には何も起こらない。
  • 自分に起こることすべては、自分の波動による。
  • どんな人生を生きるかはすべて自分にかかっている。
  • 自分の考え方が換われば、かかわる人の反応も換わり、かかわる人も替わり、起ることも、身体君も……換わる。
  • 自分に起きることの一切合財の責任を自分で負っている。

人は自分自身の人生の創造者。どんな経験をするかを選ぶ、絶対的な自由を持っているということです。そしてすべてを自分の責任であると受け入れることは、自分がまったくの自由であることを受け入れることとイコールなのです。
また自分の身に起きたことで、どうだこうだと誰かを責めることはもうなくなり、思考君は静まり気分は穏やか。

そうじゃ。自分の運命は完全に自由だと信じるならば、すべての責任を自身が背負う事に成るのじゃ。その一方で、自分は完全に運命に束縛されていると信じるならば、すべての責任を自身から退ける事に成るのじゃ。

♨ 2020/03/06

不安からの解放\(^_^)/

  • 誰も何も、自分の人生に影響を及ぼすことはできない。
  • 自分の現実は他人の行為や周りの出来事に左右されない。
  • 環境の中に自分がいるのではなく、自分が環境を創り出しているのだから、すべては必然である。

不安を持つのは偶然を信じているから。偶然にも、他が自分を脅かすことはできないので、自分は自分、他人は他人と、その人はその人で、様々な体験をしているのだな~って、余計な心配からも\ 解 放 /されるのです\(^_^)/

そうじゃ。何が起こったとしてもその原因を業(カルマ)に置き、運命を受け入れるが良いのじゃ。


何れにしても、「去るもの追わず、来るもの拒まず」の態度であるならば、不安の入る余地は無くなるじゃろう。

♨ 2020/03/06

d・_・)v 鏡 v(・_・b

自分が考えていることが環境に現れているので、自分に対する誰かの言葉や態度、また起こる出来事……など、それらは自分が創り出した現実であり、自分の考えを反映しており、かかわり合いを持つお互いが、自分の中にあるものを映し出している鏡のようなものである。

かかわっている人の中で、許せない人、嫌いな人というのも、実は自分自身の中に滞っているものを映し出している?

当然じゃ。世界とは自身の心のみを映し出しておる。自業自得など持ち出さずとも、これまでに学んできた事じゃ。


ただ、自業自得の法則のお陰で、目の前に許せない人、嫌いな人が現れてくれるため、自身が何に対して好き嫌い(差別偏見)を持っておるのかを容易に知る事が出来、自身の態度を改める事が出来るのじゃ。

♨ 2020/03/06

思考君を止める ― 欲から自由になるの法

その9 ― 自由を与えるの術

自分の思い通りにしたいという「欲」を起こす物事に対して自由を与えることで、思考君を止めることです。

ある対象に自由を与えるとは、その対象をコントロールしようとすることをやめることですから、思考君は何も解決する必要はないので止まります。自由を与えた時点で、思考君はいなくなります。

それは、誰かや何かのそのままありのままを受け入れ、認め、許す。つまり愛することとイコールです。

自由を与えるということは、愛すること(^_^)

その6 ― 認識を換えるの術

認識変換 ― 愛の奥義1 ― 安心の認識に換えるの術

ある対象が、「自分を危険な目に遭わせることはなく安全である」と認識し直すことで、愛せるようにすることです。その対象は安心であるという認識があれば、愛が湧き上がってくるのです。

不安を解決しようとする思考君の自己防衛反応が、誰かや何かをコントロールしようとするのですから、その必要がなくなれば、受け入れることができるのです。

次の2つを認識する

  1. 不安は自分の解釈の仕方が生み出していること
  2. 「自業自得の法則」の仕組み

厳密には、ある対象が安全であるという認識は生まれ得ないのじゃ。何故なら、対象とは「他(自分ではないもの)」に他ならぬからじゃ。


ある対象が安全であるという認識を得るためには、その対象が対象であってはならず、それが自分自身であるという認識を持たなければならぬのじゃ。

♨ 2020/03/06

人は自由意志を持っているか(・_・!?

生を受けた後の自分を取り巻く環境の成り行きにより、自分の身体君も思考君も形作られているのであれば、そこに個々の自由はなく、責任もないことになるでしょうか。
今の自分をうみだした責任(原因)は家庭や地域社会にあり、はては国家、地球、星々の運行……それを生み出したビッグバンからの宇宙の働きにあると、現代科学ではなるでしょうか。現象宇宙は、その原因からエネルギーが機械的に蠢いていくだけなのであれば、原因には既に結果が内在しているといえます。
そして私たちはその部分(身体君)を通して既に決まった未来への流れを傍観するだけの意識存在なのでしょうか。責任があるのは部分ではなく全体であり、それはつまり誰にも責任はないという解釈になります。「責任」と「自由」という言葉君は無意味になり、バイバイキーンと去っていくことになります。

もし、私たち意識存在に自由意志があるとするならば、それは生まれる前からあり、生まれる前に環境を選んでいる意志があるはずです。じゃあその生まれる前の意思はどこから来たか? そう考えると、一番初めの原因なる存在であり、この現象世界という一つの閉じた系 ―― システム ―― の外に位置する存在が私たちであるといえるかも。う~む……。

まぁ、そんな自由であるかどうかよりも、私たちは「自由」という感覚を味わえ、自由を感じることができる(^O^)

そうじゃ。この世界では自由を感じる事が出来る。何故なら束縛を感じておるからなのじゃ。レッスン15 気分についてで苦しみの反動として喜びは起こると話した様に、自由とは束縛の反動として感じられ、束縛とは自由の反動として感じられるのじゃ。


故に、この相対二元の世界の中で自由を求める事は、束縛を求める事に等しいのじゃ。

意思

さて。「業(意思、行為)」とは何じゃろうか? 「持ちたい」「為したい」「成りたい」という思考、それは何処からやってくるのじゃろう。それが何処からやってくるのかも解らぬのであれば、無論の事、それが自分の意思、行為などと言えるはずも無い。人は「心理作用は自ずから起きている」としか言えぬはずなのじゃ。


例えあれこれ分析し、「是之こういう理由で其れを持ちたいのだ」と言えたとしても、それは何処からやってくるかの答えではない。また、意思に限らず人は身体をも自分であり、自分のものであると言う。それが"自分の意思"とはまったく関係のない所で機能しておるにも関わらず。人は「生理作用は自ずから起きている」としか言えぬはずなのじゃ。


自業自得(因果応報)の話が出ておるが、これは「自分が応えた業を因として、自分は報いを果として得る」という法なのじゃ。無論、果を得たならば即座にその果に応じて業が起こり、その業を因とした果を得る事に成るのじゃ。これを聞くなら、業は業自体で繰り返すという事が解るじゃろう。


人生とは、輪廻とは、その無限の繰り返しなのじゃ。業は業自体で悠久の輪廻を繰り広げ続けておるだけであり、其処に始まりは無く、其処に「自分(自由)」が入り込む余地は無い。但しじゃ。其処に「自分」が居り、「自分の意思で行為している」という"因果(無明)"が有るとは説明出来るのじゃ。


そして。

"因果(無明)"はそれ自体に破滅の種を孕んでおり、その種が実り、熟した時、"因果(無明)"はそれ自体の本性(非存在性)を悟り、滅する。それが輪廻からの解脱と呼ばれる。つまり解脱とは【私】が解脱するのではない。絶対一元なる【私】は始まりの無い初めから自由であり、相対二元なる「心」を超えた存在であり、意識であり、至福なのじゃ。

【私】は元々、因果・輪廻から解脱しておるのじゃ。ただその事実を自覚するのじゃ。

♨ 2020/03/06


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