ヨガの八支則(P121〜126)

献身

♨ まんぐーす爺さんの教説から習う

献身、礼拝、帰依、放棄、信託、明け渡しなど、これらの言葉はどれも同じ事を意味しており、それはヨガへの道を進みゆく者たちに『bhaktiバクティ』と呼ばれておるのじゃ。無論、ハタ・ヨガにおいても、師、また始祖などへの献身は、重要視されるべき心構えであり、それは修行の根本的態度とも言えるものなのじゃ。そう、献身は、小さくも強大な『私』の殻を破壊する力と成り得る、極上の武器なのじゃ。

ヨガへの道を進みゆく者にとって、献身は最も重要な要素の一つである事を学ぶが良いのじゃ。

♨︎ 神への服従

例えば、おぬしは『神』を想像し、「おお神よ、どうか私をお救いください。神様、どうか私の思いを叶えてください」などと己の願いを請い、己の思いに『神』を従わせようなどと、してはおらぬじゃろうか? そして次には、起こる結果に対し「おお神よ、なぜ私をお救いくださらないのでしょうか!? 神様、どうして私の願いを叶えてくれないの! 不公平だ! 私ばかりがこんな目に会うなんて!」などと、『神』或いは『運命』や『世界』、即ち、おぬしが思考想像する﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅何かしらの『観念』に対し、不平不満、怒りを覚えてはおらぬじゃろうか?

まことに、まことに「おぬしの世界の神」は、なんと暴君であることか!

解っておるね? 献身とはその正反対の関係を『神』との間に結ぶ事なのじゃ。献身とはその文字通り身を献げる事を示し、神が主であり、主である神に私は服従する、という主従関係なのじゃ。即ち、「おお神よ、私はあなたにすべてを任せます」などと誓い、起こる結果に対する期待を放棄する事なのじゃ。じゃが唐突に「神に服従しなさい。起こる結果のすべてを神へ任せなさい。すべてを手放し神へ明け渡しなさい」などと言うたからとて、己の持つ物事への執着を、そう易々と手放せるものではない。

解っておるね? 個人的な価値尺度に基づき企て、或る結果を期待する行為こそが、苦悩を生む原因なのじゃ。じゃが、それを知らぬ無知により、行為とその結果への執着は起こる。そう、事実を見抜けぬ愚かさにより、喜ばしい結果を求めようとする欲望と、痛ましい結果を避けようとする恐怖への執着は起こる。何かを必死に掴み、それに執着する者とはまるで、自分は崖上におり、この手を放したら崖下へ落ちてしまうのだと信じて疑わぬ者の様じゃ。その者は恐怖に怯え、心身を固め、安全を保つそのために、必死に妄想を掴んでおるのじゃ。

さて、その手を放し『神』へと服従するには、何が必要じゃろうか?

♨︎ 神への信愛

仮に、おぬしが「何かしらの対象」に服従する時とは、おぬしがその対象をどう観ておる時じゃろうか? おそらくおぬしは、その対象を完全に信頼している時、若しくはその対象を完全に愛している時、などと答える事じゃろう。そう、おぬしが神を完全に愛し、信じるならば、献身も自ずと容易に起こる事じゃろう。故に、バクティは『信愛』と呼ばれる。愛ゆえの信頼であり、信頼とは即ち愛なのじゃ。

インシャラー(Inshallah)

この言葉は「神(アラー)の御心のままに、神の思し召すままに、神が望むなら」などといった事を意味しておる。「明日もお会いできますか?」「はい、明日もお会いしましょう。インシャラー」とか、「先生、私の病気は治るでしょうか?」「治るかもしれない、治らないかもしれない。インシャラー」などと、イスラム教徒が日常的に使うものなのじゃ。起こることは神が起こすのであり、我々にその権限は一切無いという真実を表明する言葉﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅であり、それは神への全託を意味しておる。

完全に神を愛するのじゃ。完全に神を信じるのじゃ。神におぬしのすべてを託すが良いのじゃ。いや、完全ではなかろうとも、すべてではなかろうとも、少しずつでも神に手渡してゆくが良いのじゃ。そう、おぬしはまったく完全に何も悪くない。これまで背負ってきた責任や罪悪、過去の重荷を降ろし、神へと手渡すが良い。そしてまた、これから背負おうとしている責任や心配、未来の重荷には手を触れず、神に任せるが良い。さすれば重荷はすべて、神が背負ってくれ、おぬしは軽快に骨を休める事が出来るじゃろう。

まことに、まことに「おぬしの世界の神」は、なんと仁君であることか!

神はおぬしのそれ以上に賢く、能力があり、愛に溢れておると信じられぬ程に、おぬしは賢く、能力があり、愛に溢れておるとでも言うのかね? おぬしが願っておる結果以上に、神は最善の結果を何時いつも用意してくれるのではないじゃろうか? 神を信じ、重荷を手放してみるのじゃ。

すべては神に責任があると物事を観る時、責任は手放され、心身は軽くなるじゃろう。すべては神が最善に計らってくれると物事を観る時、不安は手放され、心身は軽くなるじゃろう。そして、個人的な企てから離れた無欲の行為 ―― 無為むい ―― である時、行為とその結果 ―― カルマ ―― は、その効力を失うじゃろう。そう、この態度こそが、カルマ・ヨガと呼ばれておる。

妄想への執着を手放したその手にのみ、救いの手は差し伸べられるものなのじゃ。

♨︎ 無力、無力、無力

おぬしはこれまでに、自らが自らの重荷を背負い頑張ってきた、そう思っておるに違いない。そして自らが自らを指揮し頑張ってきた、そう思っておるに違いない。じゃがしかし、実に実に、実のところおぬしは、これまでに重荷を背負った事など無いし、おぬしを指揮した事など無い。これからも重荷を背負う事などな無いし、おぬしを指揮する事など無い。有るのは、「私がそれをしている」などという<思い>であり、おぬしは何一つとして為した事など無いのじゃ。

これまでもこれからも、神がすべてを背負い、指揮しておるのであり、おぬしは何も為しておらぬ。とは言うたものの、そこに『神』などという特定の﹅﹅﹅責任者、行為者を想像する事も妄想じゃ。あらゆる物事とは、特定される原因など無く、自ずから、ただ、起こる。物事とは、無数の要因が重なり、物事それ自体から物事を再創造しておる果てしない過程の連続であり、それはあるがままなのじゃ。そこには<ヒトツ>の力のみが作用しており、それは三つの気質の戯れと言われる。エネルギーはその性質に従い、自ずから﹅﹅﹅﹅、ただ、流れておるのじゃ。

故に賢者は言うのじゃ。「起こる事は、起こる」などと。そのあるがままである不特定、無原因の自然を、神と呼びたければ呼んでも良いじゃろう。おぬしはその<ヒトツ>の流れに逆らう事など些かも出来ぬのじゃ。その心も身体もその流れの内にあるのであり、逆らう事それ自体も流れの内にある事を学ぶのじゃ。それは丁度『西遊記』の逸話にある様に、孫悟空がどれ程に己の力量を発揮し、遥か彼方へ飛んでゆこうとも、それは未だ仏陀の手の平の内にある、という事に同じじゃ。

おぬしには力は無い。そうまったく。おぬしは徹底的に無力なのじゃ。即ち「おぬしは行為者ではない」そう言っておるのじゃ。そう、行為者など何処にも存在してはおらぬ。ただ、「私がしている」などという妄想が起こっておるだけなのじゃ。そこにあるのは、自ずから流れるエネルギーであり、あるがままの自然だけなのじゃ。そしておぬしは、そのあるがままの自然から離れて観ておるだけなのじゃ。おぬしの本性は、すべてを超越して在る純然たる観る者なのじゃ。

即ち「おぬしは観照者である」そう言っておるのじゃ。故におぬしは、観照者として振る舞うが良いのじゃ。「私がしている事など何ひとつ無い」と、すべてを達観しておくのじゃ。自ずから起こる結果、おぬしとはまったく無関係なものを観ておくことにより、おぬしは執着から離れる事が出来るじゃろう。観照こそが、自己が行為者であるとする錯覚を見抜き、自己と心の作用との同一化を弁別し得る根本的態度なのじゃ。

己の無力を思い知り、世界から離れ、おぬしはおぬしとて在るが良いのじゃ。

♨︎ 観照:観ておくこと

おぬしが在るというその疑い得ない中心感覚としての<私>に座っておりなさい。それが観照態度じゃ。例えるならそれは、我が家の安楽椅子ソファーに座り、寛いで映画を観ておる様な感覚じゃ。常に在る<私>を忘れず、<私>に留まる事こそが、『私』などという思想と、その他のあらゆる思想が起こる根源へと入りゆくための、扉を開く鍵と成るのじゃ。とは言うものの、その扉は今開いておる、ただ、狭い故に見つけ難く、くぐり難いだけなのじゃ。

無論、常に≪我が家≫にる事を覚えておくのは困難じゃろう。心が≪映画≫へと関心を向けた途端、心は≪我が家≫を抜け出し≪映画≫の中を彷徨うからじゃ。じゃが「あっ!」と≪映画≫の中に溶け込んでおる事に気付いたならば≪我が家≫を思い出し、その場で即刻≪映画≫から離れ、即座に「ただいま!」と≪我が家≫で≪映画≫を観ておる態度に戻り留まるのじゃ。

「あっ!」と≪映画≫の中に溶け込んでおる事に気付く度に≪我が家≫を思い出し、「ただいま!」と≪我が家≫で≪映画≫を観ておる態度に戻り留まるのじゃ。忘れては気付き思い出し戻り留まる。繰り返しの努力、持続的な努力、これこそがヨガ行法の心髄なのじゃ。易々と≪映画≫と一体と成る事に挫ける事無く繰り返しなさい。それは心の習慣との戦いなのじゃ。この戦いに打ち勝つ者のみが、≪我が家≫に寛ぎ、勝利の美酒に酔いれる事が出来るじゃろう。

重要なのは、持続的である事﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅じゃ。絶え間なく﹅﹅﹅﹅﹅<私>に留まり、見守り続ける事じゃ。その真剣さに比例して、<私>に留まる時間は増えてゆくじゃろう。そしてやがては無努力に、<私>に落ち着く時が来るじゃろう。その時まで、繰り返し、繰り返し、何度でも<私>に戻り、そして留まるが良いのじゃ。最後には、全てのすべての妄想は自動的に﹅﹅﹅﹅手放されるじゃろう。そしてそれが、ヨガ ―― 心の作用の止滅 ―― へと導いてゆくじゃろう。

<私>に留まる事こそが、幻想を滅ぼし真我への狭き門をくぐる、直接的方法なのじゃ。

♨︎ 真我献身

ヨガへの道を進みゆく者よ。おぬしは、おぬし以外の何者でもない。おぬしでないものに注意を払う事を止めなさい。認識の中心に位置する<私>と呼べるソレに注意を払いなさい。それはまったく何も難しい事ではない。ただ、それを絶え間なく覚えておく事が難しいだけなのじゃ。

何時の時も、外側で起こる物事の中に、おぬし自身を見失ってはならぬ。常々<私>に気付いておきなさい。一瞬たりとも、見失ってはならぬ。<私>と共にありなさい。<私>と共に成長しなさい。日々の生活の中で、<私>であろうと努力しなさい。その自らの努力に献身しなさい。そのために用意された時間と労力を無駄にする事無く、最大限に活用しなさい。それだけじゃ、それだけの事なのじゃ。

<私>だけを信じるが良い。<私>だけを愛するが良い。<私>だけを求めるが良い。ひたすらに<私>を信じ、ひたすらに<私>を愛し、ひたすらに<私>を求め、ひたすらに<私>に瞑想し、ひたすらに<私>に留まりなさい。必要なのはそれだけじゃ。おぬしに出来るのはそれだけじゃ。後の事は真我に任せなさい。予想外の出来事ハプニングに任せなさい。さすれば覆いは取り除かれ、ただ、今、≪我が家≫にるという当たり前の真実に、おぬしは驚嘆するじゃろう。


さあ、私のことを忘れずにいなさい。


献身


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