2013-12-22

幻影

気ままの雑記から習う
ガンジス川@バラナシ

今年もいよいよ残りわずかとなりました。上の写真はインドはバラナシの風景です。ガンジス川に映し出される灯りが幻想的です。行ったことはありませんが……。幻想、幻想、夢、まぼろし……

インド哲学では、私たちが認識している世界は「Māyā(マーヤー)」であると説いています。すべては「幻」ですよ~と言っているんですね。

さて今回は、そんなこの世の姿、”幻影”についてのお話しをしたいと思います。


Imagine there's no countries.(by Jhon Lennon)
国なんて存在しないってイメージしてごごらん。


😳「おい一休よ、日本が夜な夜な抜け出してイギリスに行ってしまうので縛ってもらえぬか。」
😶「はい。では縛りますから日本を取り出してください。」
😳「バカか、日本は単なる観念だ。取り出せるはずがなかろう!(HA! しまった……)」

観念の世界

屏風絵の虎(アニメ『一休さん』より』

ご存知『屏風の虎』。虎は屏風の中の「絵」であり、頭の中にだけ存在する「観念」だから、屏風から虎を追い出すことは不可能だというお話しです。同じように日本は頭の中だけに存在する「観念」だから、地球からも地図からもどこからも、日本を取り出すことは不可能です。

ちなみに、このお話しを修行的に解釈しますと、自分が抱えている矛盾を、自らに露呈させることで気づかせるという一休和尚ならではの卓越した導きと見ることができますね。

日本もイギリスもアメリカも中国も、宇宙も地球も国家も社会も、海も陸も木も竹も、名前も形体も勉強も運動も、国語も算数もペンもパソコンも、カレーライスもラーメンも、手も足も呼吸も姿勢も、犬も猫も牛も豚も………………それは単なる「言葉」です。つまり「観念」です。犬が認識している世界に、日本は存在するでしょうか? 宇宙は存在するでしょうか? 国家は? 社会は? 海は? ……犬は? 存在しませんね。犬はそんな観念を持っていないからです。

名前と形体

私たちの頭(脳)は、左脳による「言葉(名前)」と右脳による「映像(形体)」を結び付けた観念を作り出すことにより、この世界を認識しているようです。それは学校の先生が、広介君と研介君を区別できるように名札を付けさせておくようなものです。私たちは、ある現象に名前と形体という[ラベル]を貼りつけることで、それを認識しているということです。つまり「名前」も「形体」も、それは頭の中にだけ存在するのであり、世界自体には「名前」も「形体」も存在していないのです。世界とは「一つのハタラキ(全体)」であり、「無限のカタチ(部分)」を作り出しているのは頭なのです。

左脳と右脳

この説明は尾山による便宜的な解釈であり、科学的根拠に基づくものではございません。

宇宙、地球、国家、社会、海、陸、木、竹、名前、形体、勉強、運動、国語、算数、ペン、パソコン、カレーライス、ラーメン、手、足、呼吸、姿勢、犬、猫、牛、豚………………

これらはすべて、名前と形体を結び付けた情報を、頭の中に保持することにより、つまり観念として記憶することにより、ヒトツナガリである「ハタラキ」を分割し、「カタチ」として認識しているのです。現象世界のあるがままを認識しているのではなく、世界にラベルを貼ることで自分勝手に分別し、世界をラベルに置き換え、そのラベルを通して認識しているのです。つまり私たちは、世界を認識しているのではなく、自分の持っている観念を世界に投影して認識しているだけであり、それはまさに幻影の世界なのです。

分別した世界

つまりそれは、ここからここまでが自分の国です。ここからここまでが自分の家です。ここからここまでが自分の部屋です。ここからここまでが自分の体です。ここからここまでが自分です。というように、勝手な境界線を頭の中に引いているのです。これらはすべて、頭の中にだけ存在するラベルです。そのラベルが良い/悪いのお話しをしている訳ではもちろんありません。ただそれらはラベルであり、真実は境界線(カタチ)などはなく、自分の国も家も部屋も体もすべてはヒトツナガリの現象(ハタラキ)ですよというお話しです。

ラベル(観念)を貼りつけるとは「分別する」ということであり、私たちは分別することで世界を認識しているということです。分けることで分かろうとする。というか、分けることを分かると表現しているのです。私たちは、全体をどんどんどんどん細分化していき、分かった分かった!と楽しんでいるのです。それは、人と人の間(家族の間、社会の間、国家の間、人類の間)での共有のルールの役割も果たしてはいますが、すべてのラベルは世界を分別認識するための自分のルールであり、それを宗教・哲学的にいうならば、実在である神(全体)が、非実在である自分(部分)を体験するためのトリックであり、カルマといえるでしょうか。

勘違いの世界

また、自分の国、自分の家、自分の部屋、自分の体、自分のお金、自分の服、自分の奥さん……など「自分のモノ」という認識も、所有というラベル(暗黙のルール)による勘違いです。真実にあっては、「自分のモノ」なんて何一つ存在していないのです。

なんせ、自分すらもラベルなのですから……

言ってみれば、これらのラベルにより私たちは勘違いをして生きている……のではなく、「生きている」ってことですらラベルであり勘違いであることに気づきます。私たち(ラベル)が生きているのではない……。ラベルの無い「全体」が生きている……。ラベルの無い「全体」が宇宙を、身体君を、思考君を、働かせている……。

目を覚ます

目覚まし時計

このように、私たちが認識している世界は、ラベルが貼りついた勘違いの世界であるのです。そんなラベルを貼りつける以前の世界を、仏教では「空(くう)」といい、道教では「道(たお)」といっているとも解釈できます。そんな世界を認識する能力(智慧)を得ることを悟りというのでしょうが、それはそんなにスンゴイことでも、現実離れしていることでもなく、ラベルだったの? 幻だったの? とその勘違いに気づくことなのです。悟った人を覚者とも呼びますが、

「HA! なんだぁ夢だったのかぁ、ふぅ~よかったよかった。」

と目を覚ますようなものなのでしょうね。

屏風の虎は取り出せないことは、誰でもすでに気づいています。まったく同じように、頭の中の自分は取り出せないことも、誰でもすでに気づいています。国と国の境界線はどこにもないことは、誰でもすぐに気づきます。まったく同じように、自分と他人の境界線はどこにもないことも……


😳「おい一休よ、頭の中にいる自分が日に日に抜け出して暴れてしまうので縛ってもらえぬか。」
😶「はい。では縛りますから自分を頭の中から取り出してください。」
😳「バカか、自分は単なる観念だ。取り出せるはずがなか……HA!!」
😳「そういうことかぁーっはっはっはっはっはっはっ ……」
😶「そういうことですーっはっはっはっはっはっはっ ……」


Stop imagine there's countries & ego, too.
国も自分も存在するってイメージするのを止めてごらん。


ガンジス川@バラナシ

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