2020-06-04

2020-05-15

ダンマパダ:真理の言葉

ダンマパダ:真理の言葉

『ダンマパダ(法句経)』は、仏典で最も親しまれているものの1つで、ブッダの教えを短い詩節の形で伝えた韻文のみからなる経典であり、『スッタニパータ(経集)』とならび、現存経典のうち最古の経典といわれています。「ダンマパダ(Dhammapada)」とは、パーリ語で「真理(法)」を示す「dhamma」と、「言葉」を示す「pada」とから成り、「真理の言葉」とも訳されてもいます。

ここで紹介している言葉は、中村元氏訳の著書『ブッダの真理のことば・感興のことば』をはじめとし、法律如来氏のブログ『法律(のりつ)如来の独り言』などを参考にして、パーリ語原典に忠実にではなく、解りづらい言葉は変更し、蛇足な言葉は省き、不足の言葉は補い、より現代の日本人にも理解しやすく、実践に役立つように多少アレンジを加えています。今後も少しずつ更新していく予定です。

第1章 対句

物事は心意に付き従う。心意が原因であり、心意に基づいて起こる。もしも汚れた心意で話したり行ったりするなら、その者には苦悩が付きまとう。牛に付いていく牛車のように。

物事は心意に付き従う。心意が原因であり、心意に基づいて起こる。もしも清らかな心意で話したり行ったりするなら、その者には安楽が付きまとう。身体から離れない影のように。

「あいつは私を罵った。あいつは私を傷付けた。あいつは私に打ち勝った。あいつは私から奪った」このように誰かを恨むなら、その者たちの恨みが静まることはない。

「あいつは私を罵った。あいつは私を傷付けた。あいつは私に打ち勝った。あいつは私から奪った」このようには誰も恨まないなら、その者たちの恨みは静まる。

事実として、この世界では決して、恨みによって恨みが静まることはない。しかし、恨まないことによって恨みは静まる。これは永遠の真理である。

ここで私たちは自制すべきであるが、多くの者はこれを理解しない。しかし、人がこれを理解するなら、争いは静まる。

この世界の物事を清浄であると見なして暮し、感覚器官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠惰で、不精。悪魔はそのような者を制圧する。風が弱い樹木を倒すように。

この世界の物事を不浄であると見なして暮し、感覚器官を抑制し、食事の節度を知り、真理の教えを信じ、精進している。悪魔はそのような者を制圧できない。風が岩山を倒せないように。

心の汚れを除いていないのに、法衣をまとおうとする者は、自制と真理から離れているから、法衣はふさわしくない。

10

しかし、心の汚れを除いており、真理に適った徳行に専念している者は、自制と真理を掴んでいるから、法衣が実にふさわしい。

11

真実ではないものを真実であると見なし、真実であるものを真実ではないと見なす者たちは、誤った見方に従って真実に達しない。

12

しかし、真実であるものを真実であると知って、真実ではないものを真実ではないと見なす者たちは、正しい見方に従って真実に達する。

13

粗雑に葺いてある家屋には雨が流れ込むように、修養していない心には快楽を求める汚れた心(貪愛)が流れ込む。

14

綿密に葺いてある家屋には雨は流れ込まないように、綿密に修養している心には快楽を求める汚れた心(貪愛)も流れ込まない。

15

悪いことをした者は、この世で憂え、あの世でも憂え、2つのところで共に憂う。その者は、自分の汚れた行為を見て、憂え、悩まされる。

16

善いことをした者は、この世で喜び、あの世でも喜び、2つのところで共に喜ぶ。その者は、自分の浄らかな行為を見て、喜び、満たされる。

17

悪いことをする者は、この世で苦しみ、あの世でも苦しみ、2つのところで共に苦しむ。「私は悪いことをしました」といって苦しみ、悪いところ(地獄など)に赴いて更に苦しむ。

18

善いことをする者は、この世で楽しみ、あの世でも楽しみ、2つのところで共に楽しむ。「私は善いことをしました」といって楽しみ、善いところ(天国など)に赴いて更に楽しむ。

19

たとえ真理の教えを数多く語るにしても、遊び怠けてそれを実践していない者は、牛飼いが他者の牛を数えているようなものであり、修行者としての成果はない。

20

しかし、もしも真理の教えを少ししか語らないにしても、真理に従い、遊び怠けることなく真理を実践する者は、3種の煩悩 ①貪愛 ②憎悪 ③誤謬 を捨て去り、正知と、よく制御された心を備えているので、この世にもあの世にも執着していない。そのような者は、修行者としての成果がある。


第1章 解説

「対句」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から「対になっているもの」を主に取り上げています。第1章に限らず、ダンマパダには対句となっているものが多いです。

要点
苦しみが起こるのは、汚れた心に基づいているというのが真理です。汚れた心とは、「真理を誤解する心:誤謬」と、それを因として起こる「憎/愛へ執着する心:憎悪/貪愛」の3つの「有害な心:煩悩」のことです。この真理を聞いたなら、真理を信じ、あるいは真理を理解し、真理に適った徳行を実践し、この3つの煩悩「貪愛、憎悪、誤謬」を取り除く努力をし、汚れた心を浄めなさいと説いているのでしょう。

用語説明

煩悩:

『私』を悩み煩わせる心の作用。「ぼんのう」と読む。「汚れた心、悪い心」などに加え「悪魔」とも示されている。

貪愛:

快楽を欲し求める心の作用。愛好への執着。「とんあい」と読む。煩悩の1つ。仏教では「貪欲(とんよく)」とも訳され、「欲する心、求める心、愛する心、好む心、貪る心」などを示す。

憎悪:

苦痛を恐れ避ける心の作用。嫌悪への執着。「ぞうお」と読む。煩悩の1つ。仏教では「瞋恚(しんに)」とも訳され、「恐れる心、避ける心、憎む心、嫌う心、怒りの心」などを示す。

誤謬:

真理を理解せず、誤った見方をする心の作用。「ごびゅう」と読む。煩悩の1つ。仏教では「愚痴(ぐち)」とも訳され、「誤解する心、誤見する心、愚かな心、主観的に妄信する心」などを示す。
※ 広義においては根本誤解である「無明」を示す。

正知:

真理を理解して、正しい見方をする心の作用。「せいち」と読む。非煩悩。仏教では「智慧(ちえ)」とも訳され、「正解する心、正見する心、賢い心、客観的に観察する心」などに加え「清らかな心、善い心」も示す。
※ 広義においては根本正解である「明知」を示す。

第2章 不放逸

21

遊ばず怠けないことは不死の道であり、遊び怠けることは死の道である。遊ばず怠けない者は死ぬことがない。遊び怠ける者は、死者のようである。

22

このことを明確に理解して、遊ばず怠けない賢い者たちは、遊ばず怠けないことを楽しみ、聖なる境地を喜ぶ。

23

その者たちは、心意を留め、堅固に堪え忍び、常に健気に精進する。賢い者たちは、輪廻の束縛から離れた無上の安穏である涅槃に達する。

24

熱心な者、注意深い者、行ないの清い者、謙虚な者、自制する者、真理に従って生きている者、遊ばず怠けていない者、そのような者の名声が高まる。

25

熱心さによって、遊ばず怠けないことによって、自制することによって、克己することによって、智慧のある者は、激流さえも押し流すことのできない安全地帯を作れ。

26

智慧の乏しい愚かな人々は遊び怠ける。しかし、智慧のある者は、当世で一番の財宝を守るように、遊ばず怠けないことを守る。

27

遊び怠けることに耽るな、快楽に親しむな。遊ばず怠けずに心意を留める者は、大いなる安楽を得る。

28

賢い者が遊ばず怠けないことによって、遊び怠けることを取り除くなら、智慧の高楼に登り、憂いをなくした智慧ある者は、憂いのある愚かな者を見下ろす。地上の人々を見下ろしている山上にいる者のように。

29

遊び怠けている人々の中で遊び怠けず、眠っている人々の中でよく目覚めている。そのように賢い者とは、足の遅い馬を抜き去っていく足の速い馬のようである。

30

インドラ神は遊ばず怠けないことによって、神々の中での最高の者となった。常に、遊ばず怠けないことは称賛され、遊び怠けることは非難される。

31

遊ばず怠けないことを楽しみ、遊び怠けることを脅威と見なす修行者は、微細なものから粗大なものまであらゆる煩悩を焼きながら、燃える火のように進む。

32

遊ばず怠けないことを楽しみ、遊び怠けることを脅威と見なす修行者は、後退するはずなく、今や涅槃の目前にいる。


第2章 解説

「不放逸」と題されているように、ブッタが説いた言葉の中から、「不放逸に関するもの」を主に取り上げています。仏教における『放逸』は、徳行以外に遊び、徳行を怠け、汚れた心を放ったままにする心を示しています。ですから『不放逸』は、徳行以外に遊ばず、徳行を怠けず、汚れた心を放ったままにしない心であり、それはまた「汚れた心を脅威と理解している心」とも言えるでしょう。

要点
汚れた心を放ったまま遊び怠けることは苦痛をもたらし、汚れた心を放っておかず徳行に努め励むことは安楽をもたらすというのが真理です。ですから、誰にとっても、神々にとってさえも、苦しみの原因である汚れた心を放ったままにしておくことは恐ろしいことであり、苦しみの原因である汚れた心を清めることは安らぐことなのです。自分の苦しみを取り除くために、その原因である「貪愛、憎悪、誤謬」を放っておいてはいけません。汚れた心を放っておくことは脅威であると確信し、遊ばず怠けず、徳行に努め励みなさいと説いているのでしょう。

 第3章 心

33

心は、ガタガタと震え、ゆらゆらと揺れ、守りがたく、制しがたい。そのような心を、智慧のある者はまっすぐに調える。矢をまっすぐに調える弓師のように。

34

心は、水の中から引き上げられ、陸地に投げ出された魚のように苦悶している。そのような心を、悪魔の支配から解放せよ。

35

心は、素早く、欲するところへ向かうため、制しがたい。そのような心を、調教するのは善いことである。調教された心は安楽をもたらす。

36

心は、極めて微妙に、欲するところへ向かうため、極めて見がたい。そのような心を、智慧のある者は守る。守られた心は安楽をもたらす。

37

心は、身体なく、内に潜み、勝手に遠くへ向かう。そのような心を制する者は、悪魔の支配から解放される。

38

正しい真理を理解せず、心が明確ではなく、真理への信念が不安定な者には、智慧の完成はない。

39

心に煩悩のない者、心が散動しない者、善悪の分別を捨てた者、目覚めた者。そのような者には恐怖がない。

40

この身体は水瓶のように脆いものであると知り、この心を城壁のように堅いものにして、知慧の武器を用いて悪魔と戦い、勝利に甘んじることなく心を守れ。

41

ああ! まもなくこの身体は大地に横たわるであろう。使い道なく捨てられ、意識のない木片のように。

42

不正に向けられた心は、憎しみを持つ者が憎しみを持つ者にするよりも、恨みを持つ者が恨みを持つ者にするよりも、更に悪いことをその者自身にする。

43

正しく向けられた心は、母がするよりも、父がするよりも、また他の親族がするよりも、更に善いことをその者自身にする。


第3章 解説

「心」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から、「心の特性に関するもの」を主に取り上げています。もちろんのことですが、第3章に限らず、ダンマパダには心について説いているものが多いです。

要点
汚れた心を浄め、苦しみを取り除くためには、心を制御しなければなりません。しかし、心とはまったく思い通りにはならないものです。それでも汚れた心を清めるなら、その心は当人に安楽を与えてくれるという真理と、遊び怠けて汚れた心を放っておくなら、その心は当人に苦痛を与えるという真理を理解し、心を制御し、汚れから心を守り、清らかな心に調えてていきなさいと説いているのでしょう。

第4章 花

44

誰が、この世界、魔界、天界を征服するであろうか? 巧みな者が花を摘みとるように、誰が善く説かれた真理の言葉を摘みとるであろうか? 

45

実践する者こそ、この世界、魔界、天界を征服するであろう。実践する者こそ、巧みな者が花を摘みとるように、善く説かれた真理の言葉を摘みとるであろう。

46

この身体は、現れてはすぐに消え去る水泡のようであると知り、実際には存在しない陽炎のようであると悟った者は、悪魔の誘惑を断ち、死王には見えないところへ行く。

47

大好きな花ばかり摘むように、目の前のことばかりに関心を向ける者は、大洪水に奪い去られる眠る村のように、死神に奪い去られる。

48

大好きな花ばかり摘むように、目の前のことばかりに関心を向ける者は、決して満足することなく、死神に支配される。

49

花の色香を害さず、花蜜をとって飛び去るミツバチのように、聖者は村を訪れる。

50

他者の過失ではなく、他者のしたこと、しなかったことではなく、自分のしたこと、しなかったことを見よ。

51

美しく、きらびやかな花が咲いても、実の成らないものがあるように、善く説かれた言葉であっても、それを実践しない者に成果は現れない。

52

美しく、きらびやかな花が咲いたら、実の成るものがあるように、善く説かれた言葉は、それを実践する者にこそ成果を現す。

53

たくさんの花の集まりから、花飾りを作るように、生まれ、死ぬべき者であるのなら、たくさんの善いことの集まりによって、その人生を飾りたてよ。

54

花の香りは、センダンでも、タガラでも、ジャスミンでも、風に逆らっては進まない。しかし善人の香りは、すべての方向に香りを放ち、風に逆らっても進む。

55

センダン、タガラ、ショウレンゲ、ジャスミン、これら香りのあるものの中でも、徳行の香りこそ最上である。

56

タガラ、センダンの香りは微かであるが、徳行を身に付けた者の香りは最上であり、天界までも香る。

57

徳行を実践し、遊ばず怠けることなく生活し、正しい智慧によって解脱した者の歩んだ順路が、悪魔には解らない。

58・59

道ばたに捨てられたゴミ溜めの中でも、麗しく香る蓮華が生じて心を喜ばせるように、 ゴミ溜めのような無知な凡夫の中でも、正しく目覚めた者の弟子は智慧で光輝く。


第4章 解説

「花」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から「花を説明に用いたもの」を主に取り上げています。内容に一貫性はありません。

要点
真理に適った徳行を実践し、3つの煩悩「貪愛、憎悪、誤謬」を取り除く努力をすることは素晴らしいから、とにかく徳行を実践していきなさいと言ったところでしょう。

第5章 愚者

60

眠れない者には夜は長く、疲れた者には一里の道のりは長いように、正しい真理を理解しない愚かな者には、輪廻の道のりは長い。

61

修行者が、もしも自分よりも優れた者か、あるいは自分と等しい者に出会わないなら、勇ましく独り歩め。愚かな者を同伴するな。

62

愚かな者は「子は自分のものである。財は自分のものである」と悩む。しかし自分さえも自分のものではないのに、どうして子が自分のものであり、どうして財が自分のものであろうか。

63

愚かな者が「自分は愚かである」と考えるからこそ、その者は賢者と言われる。しかし、愚かな者が「自分は賢者である」と慢心するなら、正にその者は愚者と言われる。

64

愚かな者はたとえ生涯のあいだ賢者に仕えたとしても、真理を理解しない。匙は汁の味を知ることができないように。

65

賢明な者はたとえ瞬時のあいだ賢者に仕えたとしても、即座に真理を理解する。舌が汁の味を知るように。

66

浅はかで愚かな者は、悪い行為をしては、その辛い報いを自身に負わせる。まるで自分を敵と見なしているかのように。

67

やってそれを後悔するなら、そのやった行為は善くない。不善な者は、涙を流してその報いを受ける。

68

やってそれを後悔しないなら、そのやった行為は善い。善良な者は、満ち足りてその報いを受ける。

69

愚かな者は、悪い行為の報いが煮えきらないあいだは、それを甘い蜜のように思い込む。しかし、悪い行為の報いが煮えきったとき、そのとき愚かな者は苦しみを受ける。

70

愚かな者が、苦行者の風習にならって毎月一度、食物を草の先に付けて食べることをしても、その者は、真理を究めた者の足元にも及ばない。

71

まさに悪い報いを招く行為とは、牛乳がすぐには固形化しないようなものである。それは灰に覆われた火のように、燃えながら愚かな者に付きまとう。

72

愚かな者に思慮が生じても無益である。それは愚かな者の安楽を害し、その頭を打ち砕く。

73

愚かな者は、修行者たちからの尊敬、修行場における主権、他の家では供養などと、不実の成果を求める。

74

「在家者も出家者も、私だけが執り行うと思え。種々の素行はどんなことであろうと私だけに権力がある」このように愚かな者の心中には、欲求と慢心とが増大する。

75

1つは利益に導く道であり、1つは涅槃に至る道である。ブッダの弟子である修行者はこのように熟知して、尊敬されることを喜ぶのではなく、真偽を見極めることを修せよ。


第5章 解説

「愚者」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から「愚かな者の特性に関するもの」を主に取り上げています。

要点
愚かな者は、自分で自分を苦しめているという真理を理解していません。つまり苦しみは「貪愛、憎悪、誤謬」などの汚れた心に従うことから起こるという真理を理解していません。それさえ理解したのなら、もはや自分で自分を苦しめるという愚かな行為を止めていく賢い者です。何より大切なことは、自分で自分を苦しめているという真理を理解することですと説いているのでしょう。

第6章 賢者

76

財宝のありかを告げてくれる者のように、過ちを見て厳しい言葉を告げてくれる者に会ったなら、そのような賢い者と親しめ。そのように親しむ者には、より善いことがあり、より悪いことはない。

77

不正なことから遠ざけるように、忠告し、教え諭せ。そのようにする者は、善人に愛され、悪人に愛されない。

78

悪い友と親しむな。卑しい者と親しむな。善い友と親しめ。尊い者と親しめ。

79

真理を理解する者は、清らかな心により、安らかに横たわる。聖者の説かれた真理を、賢い者は常に楽しむ。

80

水を供給する者は水流を調え、矢を作る者は矢を調え、大工は木材を調えるが、賢い者は自分の心を調える。

81

風に動じない一塊の岩のように、賢い者は非難と称賛とに動じない。

82

清らかで濁りのない深い湖のように、賢い者たちは諸々の真理を聞いて清らかである。

83

善い人は、あらゆる物事に対する執着を捨てており、快楽を求めて語ることなく静かである。賢い者たちは、快楽、あるいは苦痛に触れようとも、浮かれた様子も落ちこんだ様子も見せることはない。

84

自分のためにも、他者のためにも、子を欲せず、財を欲せず、国を欲せず、真理に反して自分の利益を欲することがない。そのような者は、道徳を守り、智慧を備え、真理に従う者である。

85

そのように真理に従う者は、多くの人々の中にも僅かしかおらず、その者は、彼方なる岸辺(涅槃)に達する者である。他の大多数の人々は、此方の岸辺をふらふらと彷徨っている。

86

また、まったく正しく説かれた真理の場において、真理に素直に従うような者は、極めて越えがたい死王の領域を渡り、彼方なる岸辺(涅槃)に達する。

87

賢い者は、悪い習慣を捨てて、家のある生活から、家のない生活に入り、娯楽もなく離れたところで、善い習慣を身につけよ。

88

賢い者は、自分を煩悩から浄化せよ。諸々の欲を捨てて、何物もないことに喜びを求めよ。

89

真理を実践する場において、心は正しく修められる。執着を離れるという修行において、無執着を楽しみ、煩悩を滅ぼし尽くす者は、この世で完全な涅槃に入り光り輝く。


第6章 解説

「賢者」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から「賢い者の特性に関するもの」を主に取り上げています。

要点
賢い者は、自分で自分を苦しめているという真理を理解しています。つまり苦しみは「貪愛、憎悪、誤謬」などの汚れた心に従うことから起こるという真理を理解しています。それを理解しているからこそ、自分で自分を苦しめるという愚かな行為を止めていき、ついには至高の安楽である涅槃に至ります。何より大切なことは、真理に疎い愚かな者と親しむのではなく、自分で自分を苦しめているという真理を教えてくれるような賢い者と親しみ、真理に親しみ、真理を理解することですと説いているのでしょう。

第7章 尊者

90

あらゆる執着を捨てた者に、苦悩は見られない。その者は、輪廻の旅路を終え、その憂いをなくし、あらゆる束縛から解放されている。

91

その者たちは住居を楽しまず、出家して心を留めている。その者たちは白鳥が沼から飛び去るように、あの家、この家を捨て去る。

92

その者たちは蓄えることはしない。その者たちは食物の本性を知っている。その者たちの解脱の境地は空にして無相である。空をいく鳥のように、その者たちの行方は知りがたい。

93

その者の煩悩は滅し尽くし、食物を拠り所としていない。その者の解脱の境地は空にして無相である。空をいく鳥のように、その者たちの足跡は知りがたい。

94

御者によく調教された馬のように、その者の感覚器官は静まっている。慢心を離れ、煩悩はない。そのような者を神々でさえも羨む。

95

その者は、大地に等しく怒ず、門柱と等しく堅固、泥のない池のように清らかである。そのような者に輪廻は存在しない。

96

その者の心意は寂静であり、言動と行動も寂静である。寂静なるそのような者は、正しい知慧によって輪廻の束縛から解脱している。

97

輪廻の束縛を絶ち切った者は、記憶に基づいて形成されたこの世界に拠りどころなく、記憶に基づいて形成されてはいない"あるがまま"を知っている。生死を失い、欲を吐き捨てたその者は、実に至上者である。

98

村であろうと、森であろうと、低地であろうと、高地であろうと、尊者の住むところは楽しい地である。

99

森は楽しい。誰も楽しまないところであろうと、離欲した者たちは楽しむ。その者たちは、快楽を楽しむ者ではない。


第7章 解説

「尊者」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から「尊い者の特性に関するもの」を主に取り上げています。ここでは「尊者」と題しましたが、原語は「尊ばれる者」を示す『アラハント(arahant)』であり、「阿羅漢」と音訳されてもいます。尊者は「覚めた者」、つまり『ブッダ(budha)』であり、悟りを開いた者です。

要点
尊者は、自分で自分を苦しめるという愚かな行為を止めていき、ついに苦しみの原因である汚れた心を滅ぼし尽くし、至高の安楽である涅槃に至った者です。尊者は、生と死の輪廻の世界から解脱した者であり、この世界に住んでいるように見えますが、その実もはや世界に住んではいません。その正しい見解の世界は、誤った見解の世界に住む者には、決して知られることはありませんが、それは天国に住む神々さえも羨むものです。それだから、遊ばず怠けることなく徳行に努め励み"ココ"へ来なさいと説いているのでしょう。

第8章 千

100

たとえ千もの無益な言葉より、聞いて心の静まる有益な言葉1つの方が優れている。

101

たとえ千もの無益な詩句より、聞いて心の静まる詩句1つの方が優れている。

102

また、たとえ百もの無益な詩句を語るより、聞いて心の静まる真理の言葉1つ語る方が優れている。

103

戦場において百万の軍勢に勝つ者ではなく、ただ一人の自分に打ち克つ者、実にその者こそ最上の勝利者である。

104・105

実に、自分に打ち克つことは、他の人々に勝つことよりも優れている。常に自制し、自分が調教されている者。このような者の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神にも、ガンダルヴァ神にも、悪魔にも、ブラフマー神にもできない。

106

月々千もの供物を百年のあいだ神に捧げるよりも、自分を修養した者一人を一瞬のあいだだけでも礼拝せよ。その礼拝はまさしく、百年の供儀より優れている。

107

また、林のなかで百年のあいだ火神に仕えるよりも、自分を修養した者一人を一瞬のあいだだけでも礼拝せよ。その礼拝はまさしく、百年の供儀より優れている。

108

この世で一年のあいだ食物、飲料、物品、金銭、どのような供物を神に捧げるより、正しい行いの者へ敬意を払うことの方がより優れている。たとえ供物のすべてを神に捧げようと、自分を修養した者を礼拝することの半分の半分にも及ばない。

109

常に敬意を払うことを習慣とし、先輩を敬うなら、4つのことがらが増える。それは寿命、美容、安楽、活力である。

110

徳行を守らず、心を静めず百年生きるより、徳行を守り、心を静めて一日生きる方がより優れている。

111

智慧がなく、心を静めず百年生きるより、智慧を備え、心を静めて一日生きる方がより優れている。

112

また、怠惰に精進せず百年生きるより、堅固に精進して一日生きる方がより優れている。

113

あらゆる物事は現れては消えるという真理を見ずに百年生きるより、あらゆる物事は現れては消えるという真理を見て1日生きる方がより優れている。

114

また、不死の境地を見ずに百年生きるより、不死の境地を見て1日生きる者がより優れている。

115

また、最上の真理を見ずに百年生きるより、最上の真理を見て1日生きる方がより優れている。


第8章 解説

「千」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から「数字を説明に用いたもの」を主に取り上げています。

要点
人生で最も大切なことは、汚れた心を清めることであり、これ以上に大切なことは他にありません。汚れた心を放ったまま、多くのものを手に入れるよりも、多くのことをするよりも、長いあいだ生きるよりも、たった一瞬でも、たった一分でも、たった一日でも、真理に触れ、心を清める努力をすることの方が、余程に大切なことです。たとえほんの少しでも、汚れた心を清める努力をする時間を大切にしなさいと説いているのでしょう。

第9章 悪

116

悪いことから心を守るために、善いことを早々にせよ。なぜなら、善いことをもたもたと二の次にする者の心意は、悪いことでもって喜ぶものであるから。

117

もし悪いことをしたなら、それを増々と繰り返すな。それを推し進めるな。悪いことが積み重なるのは苦しみである。

118

もし善いことをしたなら、それを増々と繰り返せ。それを推し進めよ。善いことが積み重なるのは安らぎである。

119

悪いことをした報いが熟していないあいだは、悪い者でも幸福に遭うことがある。しかし、悪いことをした報いが熟したときには、悪い者は不幸に遭う。

120

善いことをした報いが熟していないあいだは、善い者でも不幸に遭うことがある。しかし、善いことをした報いが熟したときには、善い者は幸福に遭う。

121

「私にはその報いは来ないであろう」などと、悪いことを軽んずるな。一滴一滴と落ちる水が水瓶さえも満たすように、愚かな者は悪いことを刻一刻と積み重ね、その報いを満たす。

122

「私にはその報いは来ないであろう」などと、善いことを軽んずるな。一滴一滴と落ちる水が水瓶さえも満たすように、賢い者は善いことを刻一刻と積み重ね、その報いを満たす。

123

同伴者が少なく、多くの財を運んでいる商人が、怖ろしげな道を避けるように。生きたいと願う者が毒を避けるように。賢い者は悪を避けよ。

124

もし手に傷がないのなら、手で毒を運ぶこともできる。傷のない者に毒は作用しないように、悪いことをしない者に悪は作用しない。

125

悪意を持たない者に悪意を持ち、汚れなく清らかな者を汚そうとするなら、その悪い報いは、まさにその愚かな者当人にはね返る。風に逆らって投げられた微塵のように。

126

ある者は母胎に宿り、悪いことをした者は地獄に墜ち、善いことをした者は天国に赴き、煩悩の汚れのない者は完全な涅槃に至る。

127

大空の中にも、大海の中にも、山の洞窟の中にも、世界のどこにも、悪い行為の報いから逃げ出せる場所を見つけることはできない。

128

大空の中にも、大海の中にも、山の洞窟の中にも、世界のどこにも、死が征服できない場所を見つけることはできない。


第9章 解説

「悪」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から「悪いことに関するもの」を主に取り上げています。

要点
とにかく悪いことは止めなさい。「貪愛、憎悪、誤謬」に流されるままの行為を積み重ねていくことを、今すぐ止めなさい。なぜなら、悪いことをした結末は、常に苦しみだからです。その苦しい結果を避けるために、急いで善いことをしなさい。「貪愛、憎悪、誤謬」を取り除く努力を今すぐ始め、それを積み重ねていきなさい。「貪愛、憎悪、誤謬」は、自分を苦しめる猛毒であると理解し、速やかにその毒を取り除きなさいと説いているのでしょう。

第10章 罰

129

すべての者は暴力に脅え、すべての者は死を恐れる。自分を好例として、殺してはならない、殺させてはならない。

130

すべての者は暴力に脅え、すべての者にとって命は愛しい。自分を好例として、殺してはならない、殺させてはならない。

131

自分の安楽を求める者が、安楽を欲する生きものを傷付けるのなら、その者は死後に安楽を得られない。

132

自分の安楽を求める者が、安楽を欲する生きものを傷付けないのなら、その者は死後に安楽を得る。

133

誰にも荒々しく乱暴な言葉を言ってはならない。激情した言葉は苦しい。言われた者はあなたに暴力による返答をするであろう。

134

もしも音のならない壊れたドラのように、叩かれようとも自分を動かさず静かにしているのなら、その者は涅槃に到達している。その者に激情は見られない。

135

牛飼いが棒で叩くことによって牛を牧場に追い立てるように、老いと死は、生きものの命を追い立てる。

136

愚かな者は悪いことをしながらもその自覚がない。智慧のない者は自らの行為によって、焼かれた者のように苦しむ。

137~140

暴力を振るわない者、悪意のない者を傷付けるのなら、10種のうちのいずれかの状態に即刻おちいる。

①苦痛 ②身体の厳しい損失 ③身体の死滅 ④重病 ⑤錯乱 ⑥国からの災難 ⑦恐ろしい非難 ⑧親族の滅亡 ⑨破産 ⑩家の全焼

智慧のない者は、身体が死滅してから地獄に再生する。

141

裸でいる行も、髪をもつれさす行も、身に泥を塗る行も、食を断つ行も、露地に横たわる行も。あるいはゴミや埃にまみれる行も、長いあいだ屈むなどといった行も、真理への疑いを克服していない人間を浄めはしない。

142

外見を飾りたてた者であろうと、調教により心意が静かに留まり、至上者(ブラフマン:梵)に従う生活をし、生きとし生きものへの暴力を放棄するなど、正しいことをしているのなら、そのような修行者こそ、聖職者(ブラフミン:婆羅門)、あるいは出家者(サマナ:沙門)、あるいは托鉢僧(ビク:比丘)と呼ぶにふさわしい。

143

自ら進んで自身の過失を見かえし、恥じることにより自制する者。そのような者が、この世に誰か見つかるだろうか? そのような者は世間の非難を気にかけない。良馬のムチに対する態度のように。

144

ムチをあてられた良馬が、周囲を気にかけることなく熱心に走るように、世間からの非難、称賛、何であろうと気にかけることなく熱心に、真理を信じることによって、真理に適った徳行によって、その努力によって、三昧によって、真理を確かめることによって、理解力と実践力とを備えた気づきある者は、少なくないこの苦しみを捨てる。

144

水を供給する者は水流を調え、矢を作る者は矢を調え、大工は木材を調えるが、善行者は自分の心を調える。


第10章 解説

「罰」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から「罰に関するもの」を主に取り上げています。また、悪いことの代表として、他者を傷付ける暴力を取り上げています。

要点
悪いことをしたなら、必ず苦しい罰が当たるというのが真理です。また、暴力は「貪愛、憎悪、誤謬」を因として起こる悪いことですから、故意に誰かを傷付けたのなら、その心意に値するだけの報いを免れることはできません。そしてまた、自分と同じように誰もが暴力を恐れ、傷付つくことを避けていることを忘れてはいけません。悪いことは自他を害する脅威であると見なし、その愚かな行為を止めていきなさいと説いているのでしょう。

第11章 老い

146

常に燃えている世界にいながら、いったい誰が笑うであろうか? 何が嬉しいのであろうか? 黒煙によって覆われている暗闇にいながら、いったいどうして灯明を求めようとしないのであろうか!?

147

心の色眼鏡によって美しく色取られている形体を、その色眼鏡をはずして見てみよ。その形体は、要素が集められただけに過ぎない、痛手のある身体であり、病気を患うことも多い。そこには永続する丈夫さなどない。

148

老いて疲弊したこの身体は、病気の住処であり、あっさりと死滅するであろう。事実として、命とは死が終局であり、消耗しきった身体は死滅する。

149

秋に投げ捨てられたヒョウタンのように転がり、ハトのような色をしているこの骨を見て、何の楽しみがあるのか!?

150

肉と血とが塗られ、骨で形作られた城には、老いと、死と、高慢と、偽善とが配備されている。

151

事実として、豪華絢爛たる王の車は老朽化していき、この肉体もまた老いに近づいていく。しかし、善人によって善人に語り継がれる真理は、老いに近づくことはない。

152

善人の説く真理を少しも聞かない者は、牡牛のように老いるだけである。その者の脂肪が増えようとも、智慧が増えることはない。

153

私は、『私』の作者を探し求めていたが、見つけ出せずに無数に生死の輪廻を流転した。何度となく繰り返される人生は苦しみである。

154

『私』の作者よ! お前は正体を見られた! 再び『私』を作ることはできないであろう! 『私』を形成していたすべての要素は解体され、お前はその形成力を失った! 形成力を失った心は、ついに欲望を根絶するに至った。

155

若いときに、お金を貯めることなく、至上者(ブラフマン:梵)に従う生活もしていないのなら、まさしく魚のいない沼における老いたシラサギのように、哀れに消えるであろう。

156

若いときに、お金を貯めることなく、至上者(ブラフマン:梵)に従う生活もしていないのなら、捨てられた弓のように、過去のことを嘆き悲しみ横たわるであろう。


第11章 解説

「老い」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から「老いる身体に関するもの」を主に取り上げています。

要点
身体は、生まれ、老い、病み、死ぬというのが真理です。ですから、身体の若々しさを保とうとしたり、美しく見せようとする努力は、必ず徒労に終わることを理解しなさい。どれほど努力しようと死に終わり、苦しみを取り除くこともありません。しかし、心の汚れを取り除く努力は、決して徒労に終わりません。それは努力する分だけ苦しみを取り除き、ついには生と死の輪廻からの解放にまで連れていってくれるものです。ですから、自他の身体に執着することなく、真理に適った徳行に努め励みなさいと説いているのでしょう。

第12章 自分

157

もしも自分を愛しいと知るのなら、その自分を守れ。賢い者は、油断なく目覚め、遊び怠けることなく悪魔を見張り、堅固に自分を守る。中夜さえも油断なく敵を見張り、堅固に守られた城のように。

158

自分こそ第一に確立し、次に他者に教え諭すのが適切である。賢い者は、慢心で汚れない。

159

もしも他者に対するように、自分に対して教え諭すのなら、その自分が自分を調えるであろう。客観的にならなければ、自分とはまったくもって調教しがたいものである。

160

実に自分とは、自分を守る見張り役である。いったい自分以外の誰が、自分の見張り役であろうか? 自分によってよく調教された自分こそ、得がたい見張り役を得る者である。

161

自分から生じ、自分から起こり、自分によってされた悪行こそが、智慧のない愚かな自分を打ち砕く。

162

その者に、あまりにも悪いことをする習性があるのなら、その者の敵が、その者に対して求めるようなことを、その者は、まさにその者自身に対してしている。

163

自分にとって無益なこと、悪いことはしやすいが、自分にとって有益なこと、善いことは、まったくもって実にしがたい。

164

真理に従って生きる尊者、聖者の教えを、智慧のない者の悪い見解に基づいて非難する者は自滅する。実を結び自滅するカッタカ草のように。

165

自分からした悪いことが、自分を汚す。自分から悪いことをしないのなら自分は清まる。清まるか清まらないかは自分次第であり、自分以外の者が自分を浄めることはできない。

166

他者の目的がどれほど多大であろうと、自分の目的を見失うな。自分の目的を正しく知り、自分の目的を追求する者であれ。


第12章 解説

「自分」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から「自分に関するもの」を主に取り上げています。

要点
自分を大切にしなさい。自分勝手好き放題、遊び怠けることは自分を大切にすることではありません。それでは増々と自分の心を汚し、自分を苦しめるだけだからです。自分を大切にすることとは単純に、自分の汚れた心を清め、自分を苦しめることを止めることです。これこそ誰にとっても唯一の自分の目的のはずです。これ以外に、いったいどんな目的があると言えるでしょうか!? もちろん自分の心ですから、自分以外の誰もそれを清めることはできません。このことを確実に理解し、大切な自分自身のために、徳行に努め励み、自分で自分を清め、自分の目的を完遂しなさいと説いているのでしょう。

第13章 世界

167

不道徳な悪い習慣に親しむな。遊び怠けることと共に暮らすな。誤った悪い見解に親しむな。この世に生まれる者に親しまれている「貪愛、憎悪、誤謬」に流される習慣を増やさないように。

168

遊び怠けないように奮起せよ。善い行法をせよ。この世でも、あの世でも、真理の実践者は、安らぎに横たわる。

169

善い行法をせよ。悪い行法をするな。この世でも、あの世でも、真理の実践者は、安らぎに横たわる。

170

この世界は、現れてはすぐに消え去る水泡のようであると見よ。この世界は、実際には存在していない陽炎のようであると見よ。このように世界を観察する者を、死王は見ることができない。

171

さあ、この世界を見てみよ。荘厳に飾られた王の車のような世界を。愚かな者はそれに夢中になるが、智慧ある者にとってそれは、泡沫、陽炎と同じであり、執着するような魅力はない。

172

以前には遊び怠けていた者であろうと、以後には遊び怠けることがなくなるのなら、その者はこの世界を照らす。雲を離れた月のように。

173

その者がした悪いことが、善いことで覆われるなら、その者はこの世界を照らす。雲を離れた月のように。

174

この世界は束縛である。ここで、数少ない者だけがこのように世界を観察する。網から自由になって空へいく鳥のように、この束縛から自由になる者は数少ない。

175

白鳥は太陽の通り道をいく。ある者は超能力により天空をいく。賢い者は悪魔の軍勢に打ち勝ち、この世界の彼方へいく。

176

「死んだらそこで終わり、来世も何もない。私には何の報いも来ないであろう」などと真理の教えに反した虚偽妄信を語る人間にとっては、してはいけない悪いことはないであろう。

177

愚かな者は、他者に与えることを称賛しない。このように物惜しみする者が天国に行くことはない。賢い者は、他者に与えることを大いに喜ぶ。それによってその者は天国で安らぐ。

178

大地で唯一の王になるよりも、天国に行くことよりも、あるいは全世界を支配することよりも、一瞥でも「『私』は存在していない」という真理を観察することの方が、はるかに優れている。


第13章 解説

「世界」と題されているように、ブッタが説いた言葉の中から、「世界の特徴に関するもの」を主に取り上げています。第9章126句、第11章153句も参考になります。

要点
人は、始まりのない無数の生と死の輪廻を流転しているというのが真理です。この世にある身体が死滅した者は、それまでにしてきた数々の行為に付き従い、ある者は母胎に、ある者は地獄に、ある者は天国に赴きます。そしてまた天国にいる者さえも、ある者は母胎に、ある者は地獄に赴くというように、人は果てしなく輪廻を流転し続けます。この繰り返される人生は苦しみでしかなく、何の魅力もありません。ですから、この世界とは、そしてこの『私』とは! 現れては消える実体のない幻想であるという真理を観察し、輪廻の束縛から解放されなさいと説いているのでしょう。

第14章 覚者(ブッダ)

179

その者の勝利は失われ得えない。この世界においては、誰もその者の勝利に達し得ない。なんの痕跡もなく果てのない境地にいるその覚者を、どのような痕跡で辿れるのであろうか?

180

その者には、絡み付く網のように執着する欲望はどこにもない。なんの痕跡もなく果てのない境地にいるその覚者を、どのような痕跡で辿れるのであろうか?

181

瞑想行に熱心な賢い者たちは、喧噪に満ちたこの世界から離れ、寂静を喜ぶ者であり、今や気付きある正覚者の目前にいる。神々さえもその者たちを羨む。

182

人間として生まれることは難しく、人間として生きることは難しい。正しい真理を聞くことは難しく、覚者が出現することは難しい。

183

あらゆる悪いことをせず、善いことを成し遂げること。つまり、自分の心を清めること。これが諸々の覚者の教えである。

184

「忍耐は最高に善い苦行であり、涅槃は最高に善い境地である」と覚者は説く。他者を害する者、他者を悩ます者は修行者ではない。

185

誰も非難しないこと。誰も傷付けないこと。徳行によって自分の心を守ること。食事における適量を知ること。喧噪から離れたところで暮らし、座って心を清めるための努力をすること。これが諸々の覚者の教えである。

186

欲望の中では、たとえ金貨の雨が降ろうと、満足を見つけることはできない。賢い者は、欲望から得られる楽しみは束の間であり、欲望は苦しみの原因でしかないと理解している。

187

正覚者の弟子は、天国のものであろうと欲望から得られる楽しみを手にしない。ただ、欲望の滅尽を楽しむ者である。

188・189

人々は恐怖にかられて、山、林、緑地、樹木、祭祀場など、実に多くの救済所へ足を運ぶ。

しかしこれらの場所は、安泰な救済所ではなく、最上の救済所ではない。これらを救済所として頼っても、あらゆる苦しみから解放されはしない。

190・191・192

人がもし、覚者と、真理と、修行者の集まる所とを救済所にしたなら、正しい智慧により4つの聖なる真実を見る。

①苦しみ ②苦しみの生起 ③苦しみの超越 ④苦しみを止滅に導く聖なる八支の道(八正道)

そしてこれらの場所こそは、安泰な救済所であり、最上の救済所である。これらを救済所として頼ることによって、あらゆる苦しみから解放される。

193

尊い者は得がたい。その者はどこにも生まれない。尊い者となる賢い者が生まれる家は、安楽が栄えるであろう。

194

覚者の出現は安らぎである。正しい真理の教示は安らぎである。修行者たちが親しみ合うのは安らぎである。修行者たちが親しみ合える修行は安らぎである。

195

偽りの虚像を見極めた者であり、憂いと悲しみを乗り越えた者であり、何も恐れない者であり、涅槃に達した者である覚者、あるいはその弟子(帰依者)。そのような礼拝するにふさわしい者を礼拝する者の功徳は、何によっても、誰によっても、計ることはできない。


第14章 解説

「覚者」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から「覚者に関するもの」を主に取り上げています。原語は『ブッダ(budha)』であり、「覚めた者」を示しています。ダンマパダの言葉は、ゴータマ・シッダッタと呼ばれていた人間が、「ブッダ」となって後、説いたものです。

要点

覚めた者は、もはや人間ではありません。その者を理解することは原理的に不可能です。しかし覚めた者の教えは単純で「汚れた心を清らかにしなさい」というものです。この覚めた者の教えを聞く者、信じる者の功徳は計り知れません。その者たちは、これまでに徳行を積んできた者たちです。その者たちは、汚れた喧噪の世界から離れて、清らかな寂静の世界へ行くことを喜ぶ者たちであり、瞑想行に熱心な者たちです。そのような者たちこそ、心を明晰に観察し、真偽を見極め、涅槃に達する者たちです。

神、彫像、墓石、まじない、占いなどを救済所として頼っても、それは束の間の安心を与えてくれるだけで、まったく無益です。それらの救済所は、あなたに真理を理解させてはくれず、あなたの苦しみの原因である汚れた心を清めてはくれないからです。真理の教えだけが、唯一あなたを救済してくれます。さあ、覚めた者の教えを聞きなさい! ①誤解の世界は苦しみです ②苦しみは誤解から生起します ③誤解を止滅する方法があります ④それは八正道と呼ばれるものです。この4つの聖なる真実を信じて、八正道を実践しなさいと説いているのでしょう。

八正道

1.正見:

  1. 誤った見方の人生は苦しみであると見ること
  2. 苦しみは誤った見方から生起すると見ること
  3. 苦しみは滅尽することができると見ること
  4. 苦しみを滅尽する8つの方法があると見ること

「誤謬」に基づいた見方をしないこと


2.正思:

  1. 貪愛(喜び楽しみ/快楽を求めること)を思わないこと
  2. 憎悪(憂い悲しみ/苦痛を避けること)を思わないこと
  3. 憎悪(怒り憎しみ/敵意を満たすこと)を思わないこと

「貪愛、憎悪」に基づいて思考をしないこと


3.正語:

  1. 虚言を語らないこと
  2. 無駄に語らないこと
  3. 陰口を語らないこと
  4. 暴言を語らないこと
  5. ※ 虚言は嘘に限らず、真理に反した虚偽「妄信」も示す。

「貪愛、憎悪、誤謬」に基づいて発語をしないこと


4.正業:

  1. 無益な殺生を行わないこと
  2. 窃盗を行わないこと
  3. 浮気な交際を行わないこと

「貪愛、憎悪」に基づいて行為をしないこと


5.正命:

労働とは、自他共生のための自然な営みであり、例えば、利益向上(お金儲け)、事業拡大、競争の勝利、昇進などのために働くことではありません。

「貪愛、憎悪」に基づいて仕事をしないこと


6.正励:

  1. 未だない「貪愛、憎悪、誤謬」が起らないように励むこと
  2. 既にある「貪愛、憎悪、誤謬」を取り除くことに励むこと
  3. 未だない「非貪愛、非憎悪、非誤謬」が起るように励むこと
  4. 既にある「非貪愛、非憎悪、非誤謬」を保つことに励むこと
  5. ※ 非貪愛:貪愛への無関心。
    ※ 非憎悪:憎悪への無関心。
    ※ 非誤謬:正しい見解。正知。

「貪愛、憎悪」に基づいて励まないこと


7.正念:

観照とは、「する」ことではなく「在る」ことであり、「思考する」ことでも「認識する」ことでもありません。それは今現在の思考に「気付いている」ことであり、今現在の認識に「気付いている」ことであり、今現在のあらゆる「認識対象」を見守る態度です。

今現在、疑いなくある「意識・気付き・存在」として【在る】こと。認識対象との自己同一化を離れること


8.正定:


三昧とは、ある認識対象に心意が留まり続けることにより、その認識対象のみが認識されている状態であり、認識の主体である自我が認識されなくなった状態です。ですから三昧は、没我状態、忘我状態、無我状態などとも呼ばれています。

『私』が消えても「意識・気付き・存在」は【在る】と知ること。『私』との自己同一化を離れること



第15章 安楽

197

憎悪をいだく人々の中で憎悪をいだかず暮らそう。憎悪をいだく者の中で憎悪をいだかず、本当の安楽の中で生きよう。

198

苦悩する人々の中で苦悩せず暮らそう。苦悩する者の中で苦悩せず、本当の安楽の中で生きよう。

199

貪愛をいだく人々の中で貪愛をいだかずに暮らそう。貪愛をいだく者の中で貪愛をいだかず、本当の安楽の中で生きよう。

200

光輝く神々のように、寂静の中にある光に満ちた喜びを糧とする者であろう。私たちは何もない場所、本当の安楽の中で生きよう。

201

勝利する者は恨みを買い、敗北する者は苦しみに横たわる。勝利と敗北への関心を捨てた静寂な者は、安らぎに横たわる。

202

貪愛の勢力に等しい炎はなく、憎悪の破壊力に等しい災難はない。心身への執着に等しい苦しみはなく、寂静より優る安らぎはない。

203

誤謬は最上の病気であり、貪愛・憎悪は最上の苦しみである。このように理解する智慧ある者にとって、涅槃は最上の安らぎである。

204

正知は最上の利益であり、満足は最上の財産である。信頼は最上の家族であり、涅槃は最上の安らぎである。

205

世俗の喧騒から離れることを味わい飲みほし、ただ独り寂静を味わい飲みほしたのなら、恐怖と欲望は消え失せる。真理の喜びを味わい飲んでいる最中に。

206

聖者に会うことは善いことであり、聖者と一緒に暮らすことは明けても暮れても常に安らぎである。愚かな者に会わないことは、明けても暮れても常に安らぎである。

207

愚かな者と一緒に歩むことは、長期にわたる憂いをもたらす。愚かな者と一緒に暮らすことは、まさに敵と暮らすようなものであり、明けても暮れても常に苦しみである。しかし賢い者と一緒に暮らすことは、家族が集うようなものであり、明けても暮れても常に安らぎである。

208

だからこそ、本当に賢い者、智慧のある者、教えを多く聞いた者、忍耐強くて道徳のある者、徳行を守る聖者、そのような善人、賢者に従え。月がその軌道に従うように。


第15章 解説

「安楽」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から「安楽(幸福)に関するもの」を主に取り上げています。

要点
幸福とは、欲望で渦巻く喧噪の中にはあり得ず、静寂の中に初めからあるものです。静寂の中に元々ある安楽は本物の幸福であり、苦痛の反動として喧噪の中に生まれる快楽は偽物の幸福です。快楽と苦痛に執着すること(貪愛・憎悪)は最上の苦しみです。苦痛を避け、快楽を求めて喧噪の中に溺れることから離れ、本物の幸福を求めて静寂の中に沈んでいくのなら、静寂を超えた静寂、安楽を超えた安楽である涅槃に至ります。それだから、その本物の幸福に至る軌道へ導いてくれる尊い者、尊い教えに従いなさいと説いているのでしょう。

第16章 愛

209

ヨガ(修行)に自分をつなぎ止めることなく、ヨガ(修行)ではないことに自分をつなぎ止める。自分の目的を捨てて「愛」を受けとる者は、自分の目的のためのヨガ(修行)に励む者を羨む。

210

いつのときも愛する者と会うな。愛していない者と会うな。愛する者に出会わないことは苦しみであり、愛していない者に出会うことは苦しみである。

211

それだから、愛する者を作るな。愛する者を失うことは、本当に残念なことである。しかし愛する者も、愛していない者もいない者は、それらの束縛につかまることはない。

212

愛情から憂いが生まれ、愛情から恐れが生まれる。それだから、愛情から解放された者には、どうしたって憂い、恐れは生まれない。

213

愛好から憂いが生まれ、愛好から恐れが生まれる。それだから、愛好から解放された者には、どうしたって憂い、恐れは生まれない。

214

愛楽(快楽)から憂いが生まれ、愛楽(快楽)から恐れが生まれる。それだから、愛楽(快楽)から解放された者には、どうしたって憂い、恐れは生まれない。

215

愛欲(性欲)から憂いが生まれ、愛欲(性欲)から恐れが生まれる。それだから、愛欲(性欲)から解放された者には、どうしたって憂い、恐れは生まれない。

216

渇愛(欲望)から憂いが生まれ、渇愛(欲望)から恐れが生まれる。それだから、渇愛(欲望)から解放された者には、どうしたって憂い、恐れは生まれない。

217

徳行と見識とを備え、真理に従い、真実を理解し、自分の目的を果たす者。人はそのような者を愛する者とせよ。

218

語ることのできないもの(涅槃)に対しての意志が起こり、心意によってその熱意が充満し、心が愛欲に束縛されていない者は、上流にある者と呼ばれる。(愛欲の激流を、挫けることなく上ってきたのだから)

219・220

長いあいだ留守にしていた者が、遠方から無事に帰りつくのなら、家族友人、親友たちは、その帰りを大いに喜ぶ。

家族が愛する者の帰りを喜んでもてなすように、積まれた功徳も、この世からあの世へ逝った者を喜んでもてなす。


第16章 解説

「愛」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から「愛に関する者」を主に取り上げています。

要点
愛は、苦しみを起こす原因であるというのが真理です。ですから、愛する者、愛する物事を作ってはいけません。また「愛するもの/愛していないもの」はコインのように表裏の関係にありますから、例えば愛する者がいるのなら、愛していない者がいます。そして必ずや「愛する者といられない苦しみ、愛する者と出会えない苦しみ、愛する者と離れる苦しみ、愛していない者といる苦しみ、愛していない者と出会う苦しみ……」などを経験することになります。

ここで、真実を探求する賢いヨガ行者は、この世界にあるものに関心(愛と憎)を持つことが、苦しみの原因であることを理解します。そして、この世界のあらゆるものへの関心(愛と憎)を断ち、この世界の彼方にある真実にとめどない関心(愛)を注ぎ続けようとする凄まじく堅固な意志を奮い立たせ、ついに真実(涅槃)に到達します。このように愛を受け取ることなく、自分の目的を果たすヨガ行者になりなさいと説いているのでしょう。

第17章 怒り

221

慢心を取り去り、怒りを捨てよ。あらゆる束縛を断ち切れ。名前と形体に執着せず、何も所持していない者に、苦しみは付き従わない。

222

まさに暴走する馬車をどうにか制御し続けるように、湧き起こる怒りを制御し続ける者。私はその者を「御者」と呼び、他の者は単に「手綱を握っている者」と呼ぶ。

223

怒らないことによって怒りを克服せよ。善によって不善を克服せよ。布施によって物惜しみを克服せよ。そして、真実によって虚偽を語る自分を克服せよ。

224

真実を語れ。怒るな。乞われたなら少しでも与えよ。この3つの徳行を理由に、死後は神々の面前に行くであろう。

225

いつのときも行動を制御し、誰も傷付けることのない聖者は、不死の境地に行きつく。そこに至ったのなら、もはや憂いはない。

226

常に目覚め気付いており、昼夜を問わず実習し、涅槃に関心を向ける者の煩悩は、刻一刻と消え失せていく。

227

黙っている者を非難する者もいるし、多くを語る者を非難する者もいるし、適量を語る者を非難する者もいる。結局のところ、どんな者であろうと非難する者はいる。アトゥラよ、この世の中に非難されない者などいない。これは昔からのことであり、今に始まったことではない。

228

一方的に非難される者も、一方的に称賛される者も、これまでにいなかったし、今もいないし、これからもいない。

229

もしも見識のある者が、ある瞑想者の非の打ちどころがない生活を、日に日によく理解していくのなら、「この者こそ、智慧と徳行を備えた瞑想者である!」などと、その智慧者を称賛するであろう。

230

どこの国であろうと価値を有する黄金のように、その価値をよく理解するならば、誰が智慧者を非難できるというのか!? 神々でさえも智慧者を称賛し、神々を生んだブラフマー神にさえも智慧者は称賛される。

231

身体によって自分を制御し、沸々と湧き起こる身体の怒りを収めよ。身体による悪行を捨てて、身体によって善いことをせよ。

232

言葉によって自分を制御し、沸々と湧き起こる言葉の怒りを収めよ。言葉による悪行を捨てて、言葉によって善いことをせよ。

233

心意によって自分を制御し、沸々と湧き起こる心意の怒りを収めよ。心意による悪行を捨てて、心意によって善いことをせよ。

234

賢い者は、身体によって自分を制御し、言葉によって自分を制御し、心意によって自分を制御する。その者たちは、実によく自分を制御している。


第17章 解説

「怒り」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から「怒りに関するもの」を主に取り上げています。

要点
怒りが起こるのは、慢心に基づいているというのが真理です。慢心とは「他者より自分の方が正しい、他者より自分の方が優れている、他者より自分の方が価値がある、自分には他者を支配する権利がある……」などといった誤った見解です。真理に従った正しい見解とは、人は皆平等であり、不変的な価値を有しているというものです。

ですから、もしも慢心がないのなら、たとえ誰かに非難されたとしも「私は間違っていない。私の方が彼より優れている。私の価値を下げる彼を許せない」などという思いは起こらず、怒りも湧き起こることはないでしょう。また、たとえ自分の思い通りにならない者に遭遇したとしても「間違っているのは彼の方だ。彼は私の言うことを聞くべきだ」などという思いは起こらず、怒りも湧き起ることはないでしょう。

もしも怒りが湧き起こったのなら、真理に反した慢心を見つけ出すことによって、即刻その怒りを収めなさい。そして真理への信念を強化しなさい。非難すべき者、傷付けるべき者など誰一人としていないことを理解し、そして「誰も非難しない、誰も傷付けない」と強く決心しなさい。

怒りは破壊的です。怒りは、暴れまわり抑えがたい「行動、言動、心意」を起こし、他者に限らず自分をも破壊しようとします。さらにその悪行の報いは自分に返ってきますので、それは自他を苦しめるとてつもない脅威です。ですから、怒りを行動に移すのをやめなさい。怒りを言動に移すのをやめなさい。怒りを心意に移すのをやめなさい。そして慢心を取り除き、怒ることをやめなさいと説いているのでしょう。

第18章 垢

235

今や落ちかけの黄色い葉のような者の前には、閻魔の使者が現れる。にもかかわらず、臨終の入口に立つあなたには、地獄までの旅費さえも見つけ出せない。

236

それだから、急いで努力せよ。賢い者であれ。自分の安全地帯を作れ。垢を取り除いた汚れのない者は、天国を越えて聖なる地に行くであろう。

237

今や老衰に至った者は、閻魔の面前に赴くことになる。にもかかわらず、あなたには途中に滞在するところもなく、地獄までの旅費さえも見つけ出せない。

238

それだから、急いで努力せよ。賢い者であれ。自分の安全地帯を作れ。垢を取り除いた汚れのない者は、再び誕生と老いを経験することはない。

239

智慧のある者は、鍛冶屋が銀から不純物を取り除くように、少しずつ、少しずつ、一刻、一刻、自分の垢を取り除いていく。

240

鉄から起こった錆が、鉄を蝕むように、自分から起こった悪行が、自分を悪いところ(地獄など)へ導く。

241

読まれない経典には垢が付き、掃除しない家には垢が付き、美容を怠たる顔には垢が付き、遊び怠けて汚れた心を放っておく者には垢が付く。

242

自堕落は自尊心に付いた垢であり、物惜しみは布施心に付いた垢である。垢を付けることは、この世でもあの世でも悪い習慣である。

243

それらの垢よりも何よりも、真実を見誤る無明は最上の垢である。修行者たちよ、この垢を捨てて、無垢な者になりなさい。

244

カラスのように厚かましく、無礼で、ふてぶてしく、傲慢。このように汚れた生活をする者は、恥を知らないから生きやすい。

245

しかし、常に清きを求め、謙虚で、傲慢ではない。このように清らかな生活をする観照者は、恥を知るから生きがたい。

246・247

生殺をし、虚言を語る者は、この世界において、与えられていない物を取ったり、他人の妻(あるいは夫)と交わったり、酒を飲んだりする。このようなことに依存する者は、まさしくこの世界において、自分の根を掘っているようであり、ついに自分で立てなくなる。

248

友よ。このように知れ。自制しないことは悪い習慣である。あなたに災難をもたらし、あなたを長く苦しめるような、きりのない貪りと、真理に反することはやめよ。

249

まさに人は、信じる心に従って、清らかな心に従って施す。そのような中で、他者が施してくれた飲食物に不満のある者は、昼であろうと夜であろうと三昧に至ることはない。

250

しかしこの不満が、根こそぎに断たれ、すっかり除去された者は、昼であろうと、夜であろうと三昧に至る。

251

貪愛の勢いに等しい炎はなく、憎悪のまといつきに等しい罠はなく、誤謬の抜け目のなさに等しい網はなく、欲望の激しい流れに等しい川はない。

252

他者の過失は見やすいが、自分の過失は見がたい。実に人は、他者の過失は、玄米からモミ殻を丁寧に取り分けるように見分けるが、自分の過失は見なかったこととして隠す。ずるい賭博師が、不利なサイコロの目を隠すように。

253

他者の過失を見るその度に、その過失を責める者。そのような者の煩悩は増大する。その者は煩悩の滅尽から離れていく。

254

天空には足跡はなく、門外には正しい修行者はいないであろう。人々は虚像を大いに喜ぶが、煩悩を滅尽して真実を知る覚者は、虚像がないことを喜ぶ。

254

天空には足跡はなく、門外には正しい修行者はいないであろう。記憶に基づき形成された観念(虚像)は常在ではなく、煩悩を滅尽して真実を知る覚者にとって、それは存在さえしていない。


第18章 解説

「垢」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から「垢、汚れに関するもの」を主に取り上げています。

要点
ここでいう「垢」は、煩悩のことを示しています。つまり「貪愛、憎悪、誤謬」です。諸々の覚者は、この「垢」を増やす行為から離れ、この「垢」を減らす行為に励みなさいと教えます。これが真理に適った徳行です。簡単に言うのなら、快楽を愛さず、苦痛を憎まず、真理を信じて誤った妄信を取り除いていくことですが、それはまったく簡単とは言えないものです。それでも「徳行こそが自分から苦しみを取り除いていく唯一の方法である」という真理の言葉を信じ、理解し、自分のために少しでも、一時でも、徳行に励むべきです。

また、ここで重要なことは、他者の「垢」に目を向けるのではなく、自分自身の「垢」に目を向けることです。もしも他者の「垢」に目を向けるのなら、慢心の残る者は、その者を非難することによって、自らの「垢」を増やすことでしょう。確かに、自分の「垢」を見るのは難しく、恥ずかしく、厳しいものです。それでも勇気を以って自分の「垢」を見て、その「垢」の付いていた自分を非難するのではなく、その「垢」を取り除いていく自分を喜びながら、自分の目的を遂行していきなさいと説いているのでしょう。

第19章 真理者

256

無理矢理に、真理に適ったことへ他者を強引に導くのなら、その者は「真理の化身である真理者」ではない。賢い者は、真理に適った合理と、真理に適っていない無理とを見分けられるため、他者を強引に導くような無理はしない。

257

無理矢理にではなく、真理に適ったことへ他者を安穏に導くのなら、その者こそは「真理を守る守護者、真理を知る智慧者、真理の化身である真理者」などと呼ばれる。

258

真理について多くを語るというだけでは賢い者ではない。安穏な者、恨みのない者、恐れのない者、その者こそ賢者と呼ばれる。

259

真理について多くを語るというだけでは真理の保有者ではない。しかし、真理について少しだけ聞いたとしても、身をもって真理を観察し、遊び怠けて真理を放ってはおかない者。その者こそまさに真理の保有者である。

260

白髪頭であるというだけでは長老ではない。ただ齢を重ねただけの者は、「無駄に老いた者」と呼ばれる。

261

真実、真理、非傷害(非暴力)、自制、調教を備える者。その者こそ「汚れを吐いた者、賢者、長老」などと呼ばれる。

262・263

端正な者とは、語りの雄弁さ、あるいは見栄えによるのではない。また、嫉妬のある者、物惜しみする者、ずる賢い者でもない。

しかしこれらが根こそぎに断たれ、すっかり除去された者は、「怒りを吐き出した者、智慧者、端正な者」などと呼ばれる。

264

頭を丸めることによって修行者になるのではない。虚言を語り、きりなく貪るような不徳の者が、どうして修行者であろうか?

265

しかし、微細のものから粗大なものまであらゆる悪(煩悩)を静める者は、まさに諸々の悪が静まったからこそ、修行者と呼ばれる。

266

他者に食べものを乞うというだけでは托鉢僧(ビク:比丘)ではない。不正な習慣を維持しているのなら、それだけでは修行者にはならない。

267

至上者であるブラフマンに従う生活をする者は、善行によるご利益と、悪行による災いを無視して、この世界を超越して行く。実にその者こそ修行者と呼ばれる。

268・269

真理を理解する智慧がないのなら、沈黙しているからといって沈黙者(ムニ:牟尼)ではない。しかし賢い者は、善悪を判断する天秤を持っているかのように、最善を選び、悪を避ける。その者は、それにより沈黙者(ムニ:牟尼)であり、この世界において善のみを選ぶ者は、それにより沈黙者(ムニ:牟尼)と呼ばれる。

270

生きものを傷付けることによって聖者となるのではない。あらゆる生きものを傷付けないことによって聖者と呼ばれる。

271

今や私は、普通の者には知られていない離欲無執着の安楽に達した。それは道徳や徳行によってでもなく、あるいは博識によってでもなく、あるいは三昧に至ることによってでもなく、あるいは喧噪を離れて暮らすることによってでもない。修行者よ、煩悩の滅尽を得ていない者は安心してはならない。


第19章 解説

「真理者」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から「真理者の特性に関するもの」を主に取り上げています。

要点
真理の化身である真理者は、実のところ何によっても判断することのできない者です。丸坊主かもしれませんし、長髪かもしれません。着飾っているかもしれませんし、フンドシ1枚かもしれません。雄弁に語りかけるかもしれませんし、沈黙しているかもしれません。それでも、恩着せがましく無理に真理を教え聞かせるとか、単に真理について多くを語るだけとか、単に沈黙ししているだけという者ではありません。

聖者、尊者、覚者、至上者、沈黙者、真理者などと呼ばれる者たちは、すべての煩悩を滅尽した者です。記憶に基ずくすべての虚像(行:潜在印象)を滅尽した者です。それによってこの虚像世界を超越し、真実(涅槃)に達し、生と死、欲望と恐怖から解放された者です。「貪愛・憎悪・誤謬」という悪いことをする動機が消滅しているので、人々を助ける善いことのみが"自然と起こります"。

修行者は、真理を聞こうと、徳行に励もうと、世俗から離れて暮らそうと、三昧に至ろうと、根本煩悩である「無明(真実に対する無知)」が除去されるまで、油断してはいけません。安心してはいけません。真実を知ったなら安心だけが残るでしょう。もしも欲望と恐怖が残り、世界の見え方が変わっていないのなら、自分の問題は解決していません。自分の問題を解決するまで、煩悩の除去に邁進しなさいと説いているのでしょう。

第20章 道

273

人として歩むべき道の中では「八正道」と名付いた八支のものが最上であり、真実の中では「四聖諦」と名付いた4句のものが最上であり、真理の中では「離欲」と名付いた快楽と苦痛への無関心が最上であり、二足の中では「覚者」と名付いた眼のある者が最上である。

274

これこそ人として歩むべき道であり、誤った見解を清めるための道は他にない。この道こそが誤った見方をしている悪魔を撃退するのであるから、あなたたちはこれのみを実践せよ。

275

完全な智慧によって悪魔を撃退した私によって、この道はあなたたちに教示された。あなたたちは、これこそを実践して、苦しみを終わりとせよ。

276

私は教示者に過ぎない。あなたたちは、するべきことを熱心にせよ。これを実践する瞑想者は、悪魔の束縛から解脱する。

277

記憶に基づいて形成されるあらゆる心意(誤謬・貪愛・憎悪)は常在ではないと、智慧によって「諸行非常」を観照するとき、無明(虚像の自己)による苦しみを離れる。この道が心を清めるための道である。

278

記憶に基づいて形成されるあらゆる心意(誤謬・貪愛・憎悪)は苦しみであると、智慧によって「諸行苦」を観照するとき、無明(虚像の自己)による苦しみを離れる。この道が心を清めるための道である。

279

意識のなかに現れては消えるあらゆる認識対象は自己ではないと、智慧によって「諸法非我」を観照するとき、無明(虚像の自己)による苦しみを離れる。この道が心を清めるための道である。

280

奮起するべきときに起き上がらない者、若くて力があるのに怠け癖のある者、思考することにも心意を向けることにも覇気のないぐうたらな者は、智慧によって道の尊さを見つけ出すことはできない。

281

身体による悪い行為をしないこと。正しい言葉使いを守ること。心意を制御すること。これら心を清める3つの行為の道によって、聖仙が説く道を達成するであろう。

282

ヨガ(修行)によってこそ智慧が生じる。ヨガ(修行)なしでは智慧は滅びる。つまり、智慧を増やしていく道と智慧を減らしていく道とがある。この2つの道を知って、智慧が増えていく道を歩めるように自分を確立せよ。

283

恐怖は欲望そのものから生じるため、何をどれだけ欲するのかに対処するのではなく、欲望そのものに対処せよ。修行者たちよ、欲望そのものから離れて恐れのない安らぎである涅槃に達せよ。

284

欲望そのものから離れない限り、たとえばある一人の女性に対する愛欲が微少になるだけでは、子牛が母牛に寄り添って乳を飲むように、いまだ愛欲に寄り添って快楽に執着している。

285

秋に咲くハスの花を手で切り離すように、自分の愛執を切り離せ。覚者によって教示された涅槃、寂静の道のみを修養せよ。

286

「雨期をここで過ごそう。冬季は、夏季は、ここで過ごそう」などと愚かな者は考えるが、自分に差し迫る難事を理解することはない。

287

愛する子供や家畜のことに夢中になるように、目の前のことばかりに関心を向ける者は、大洪水に奪い去られる眠る村のように、死神に奪い去られる。

288

愛する子供は避難所にはならない。愛する父親であろうと母親であろうと避難所にはならない。死神に捕えられた者にとっては、愛する家族であろうと避難所にはならない。

289

この道理を理解したのなら、賢い者は徳行によって心を制御し、涅槃まで導いてくれる道に従い、速やかに心を清めよ。


第20章 解説

「道」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から「人が歩むべき道に関するもの」を主に取り上げています。言葉を変えて言うなら「道徳、徳行、人道、仁義、倫理」などであり、具体的には「八正道」のことを示しています。八正道については第14章の解説下をご参照ください。 こちら

要点

人生の目的を成就した覚者によって、人として歩むべき道である「八正道」は説かれました。この八正道を実践していくのなら、制御された心は自ずから静まるでしょう。そしてそのときこそ、何者でもなく智慧によって【諸行非常・諸行苦・諸法非我】の観照が起こり、無明(虚像の自己)は除去され、人生の目的である涅槃に達するときです。

人の身体は死滅します! 人が手に入れた何もかもは、心を清めることなく、苦しみを取り除くことなく、身体と共にあっけなく消え去るものです。ですから、目の前の快楽や苦痛にばかり目を向けていては、人生の目的に近づくことなく、あっという間に死んでいることでしょう。汚れたままの心を残して! この脅威から逃れるために、今こそ目的に目を向けて、弛まず焦らず「道」を歩んでいきなさいと説いているのでしょう。

第21章 雑多

290

もしも限り無く広大な安楽を観たのなら、愚か者でさえ取るに足らない微少な安楽など洗いざらい捨てるであろう。賢い者は、取るに足らない微少な安楽を捨てて、限り無く広大な安楽を正しく観る。

291

他者を恨み、他者に苦しみを与えることによって、自分の安楽を求めるのなら、恨むことと恨まれることが交互に繰り返され、その者が恨みから解放されることはない。

292

するべきことを捨てて、するべきではないことをする者。このように自分本意で高慢、遊び怠けて煩悩を放ったままにする心癖のある不放逸な者たちには、なおのこと煩悩が増大していく。

293

しかし、絶え間なく常に身体の動きを観照し、よく努力している者。するべきことを弛まずし続け、すべきではないことをしない者。このように観照があり、正知のある者たちからは、あれよあれよと煩悩が消失していく。

294

母のような「渇愛」を除去し、父のような「我慢」を除去し、武家の2人の王のような「常見と断見」を除去し、王国のような「12処」を除去し、王国の家来のような「貪愛と憎悪」を除去する。このように、聖職者は取り乱すことなく歩んでいく。
※ 下記に用語説明

295

母のような「渇愛」を除去し、父のような「我慢」を除去し、教典を聞き学ぶ2人の王のような「常見と断見」を除去し、トラのような「五蓋」の5番目である「懐疑」を除去する。このように、聖職者は取り乱すことなく歩んでいく。
※ 下記に用語説明

296

ゴータマの弟子は、よく目覚め、常に目覚めている。その者たちは昼であろうと夜であろうと、いつでも覚者に向いた心意を観照している。

297

ゴータマの弟子は、よく目覚め、常に目覚めている。その者たちは昼であろうと夜であろうと、いつでも真理に向いた心意を観照している。

298

ゴータマの弟子は、よく目覚め、常に目覚めている。その者たちは昼であろうと夜であろうと、いつでも修行者たちに向いた心意を観照している。

299

ゴータマの弟子は、よく目覚め、常に目覚めている。その者たちは昼であろうと夜であろうと、いつでも身体に向いた心意を観照している。

300

ゴータマの弟子は、よく目覚め、常に目覚めている。その者たちは昼であろうと夜であろうと、何も傷付けることのない非傷害(非暴力)の心向きを楽しんでいる。

301

ゴータマの弟子は、よく目覚め、常に目覚めている。その者たちは昼であろうと夜であろうと、瞑想する心向きを楽しんでいる。

302

出家した生活は、なかなか楽しみがたく難しい。家族と共に暮らす家での生活は、なかなか苦しく難しい。結局のところどこに住もうと、輪廻の旅人は苦しみに溺れるより他ない。それだから、輪廻の旅人に出るな。苦しみに溺れるな。

303

信心と徳行を備えつつ、富と名声も備えている者は、親しむその地その地で、同じように尊敬される。

304

善人は、ヒマラヤの山々のように、遠く離れた場所からでも真理がよく見える。善人ではない者は、夜に放たれた矢のように、その場にいても真理が見えない。

305

独り坐り、独り横になり、独り歩みを怠けない。誰もいない中で、独り自分を調教することを楽しめ。


第21章 解説

「雑多」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から、「特定の分類をしていないもの」を主に取り上げています。内容に一貫性はないということですが、以下のようにまとめてみました。

要点
まず、「自分が存在する」という我慢から、「自分は常在する」という常見と「自分は消滅する」という断見の2つの誤謬が起こり、「存在していたい、存在したくない」という相反する2つの渇愛が生まれます。そして次に、6つの認識器官である「眼・耳・鼻・舌・身体・心」と、6つの認識対象である「色・音・香・味・体感・想念」という12処による経験・記憶に基づいて、「喜び楽しみたい」という貪愛と、「憂い悲しみたくない」という憎悪の2つが起こります。私ことゴータマの弟子は、これらの煩悩を除去していきなさい。

ゴータマの弟子は、いつでもよく覚めていなさい。無意識的で気付きなく、記憶に従う習慣的な行為の中に入り込み、観照を忘れることをやめなさい。意識的で気付いており、記憶に従う習慣的な行為の外に出て、いつも観照をしていなさい。そしてゴータマの弟子は、誰も傷付けることなく、独りきりの中で生じる寂静を楽しみなさい。機が熟したのなら、その寂静の中に果てのない永遠の安楽を発見するでしょう。ですからゴータマの弟子は、ささいな一時の安楽を捨てさり、いつもよく目覚め、独り寂静を楽しみなさいと説いているのでしょう。

用語説明

渇愛:

  1. 貪愛 :快楽への欲望。「喜び楽しみたい」という心意
  2. 有愛 :存在への欲望。「存在していたい」という心意
  3. 無有愛:消滅への欲望。「存在したくない」という心意

これらを合わせて渇愛と呼ばれる


我慢:

自分は存在するという見解。「がまん」と読む。煩悩の1つ。あるいは自慢すること。慢心。

常見:

自分は常在するという見解。「じょうけん」と読む。煩悩の1つ。自分は永遠不滅の真我(魂)であるとする見解。

断見:

自分は消滅するという見解。「だんけん」と読む。煩悩の1つ。自分は生滅変化する身体であるとする見解。

12処:

  • 六根:①眼 ②耳 ③鼻 ④舌 ⑤身体 ⑥心意
  • 六境:①色 ②音 ③香 ④味 ⑤体感 ⑥想念

これらを合わせて12処と呼ばれる


五蓋:

  1. 貪愛   :快楽への欲望
  2. 憎悪   :苦痛への恐怖
  3. 惛沈/睡眠:坐ることもしていられない鎮静状態/眠気
  4. 掉挙/悪作:居ても立ってもいられない興奮状態/後悔
  5. 懐疑   :四聖諦に対する疑念

これらを合わせて五蓋と呼ばれる


第22章 地獄

306

本当ではないことを語る者、あるいは自分がしておきながら自分はしていないと言い張る者。両者は死後に地獄に墜ちる。その者たちは、他世においても同じ悪行の人間となる。

307

袈裟を首からかけていようと、制御することなく悪いことをする者は多い。そのような悪人たちは、その悪い行為によって地獄に再生する。

308

もしも制御することなく徳行を破るような出家者であるのなら、在家者からの施しを食べるより、炎のように熱い鉄球を食べる方が優れている。

309

観照することなく汚れた心を放っておき、他者の妻(あるいは夫)に寄り添う者は、4つの問題に陥る。まず不利益をもたらすこと。次に満足に眠れないこと。第3に非難されること。第4に地獄に墜ちること。

310

不利益をもたらし、死後は地獄に墜ちることに加えて、脅えた男と脅えた女の楽しみは少しであろうし、王(法律)によって重い罰が与えられることもありえる。それだから人は、他者の妻(あるいは夫)に近づくな。

311

誤って掴んだ草が手を切るように、修行道もまた誤って行うのなら地獄に引きずられる。

312

だらしのない行為、不純な修行達成の誓願、疑いのある修行生活(梵行)、何であれ誤った修行道に、大きな成果は現れない。

313

もしも為すべきことであるのなら、その為すべきことをしっかり努力せよ。だらしのない修行者は、より多くのゴミをまき散らす。

314

悪いことをして後で苦しむぐらいなら、悪いことをするより、何もしないことの方が優れている。なんとなしに何かをするより、善いことをすることの方が優れている。そうしたなら悔いることはない。

315

内も外も見張り守られた国境の城壁のように、自分の内も外もを見張り守れ。一時も無駄に過ごすな。一時を失った者は、地獄に引き渡されて悲しむ。

316

恥じるべきではないことを恥じ、恥じるべきことを恥じない。このような誤った見解を保持することによって、人々は悪いところ(地獄など)へ赴く。

317

恐れるべきではないことを恐怖と見なし、恐れるべきことを恐怖と見なさない。このような誤った見解を保持することによって、人々は悪いところ(地獄など)へ赴く。

318

罪ではないことを罪であると思いなし、罪であることを罪ではないと見なす。このような誤った見解を保持することによって、人々は悪いところ(地獄など)へ赴く。

319

罪であることを罪であると理解し、罪ではないことを罪ではないと理解する。このように正しい見解を保持することによって、人々は善いところ(天国など)へ赴く。


第22章 解説

「地獄」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から、「地獄に関するもの」を主に取り上げています。第10章137句も参考になります。

要点
悪いことをする者は悪いところ(地獄など)に赴き、善いことをする者は善いところ(天国など)に赴くというのが真理です。地獄に墜ちるほどの悪いこととは、「①悪意のない者を傷つけること ②他者のものを横取りしたり盗んだりすること ③他者の妻、あるいは夫と親交すること ④誰も見ていないからと嘘をつき誤魔化すこと」です。このどれもが、自分さえよければ他者が傷ついてもよいとする傲慢な見解に基づいています。この傲慢さこそ、恥じるべき罪であり、恐れるべき罪であり、地獄への切符に他なりません。この真理を知って、手放すべきものを手放しなさいと説いているのでしょう。

第23章 ゾウ

320

戦場で弓から射られた矢に耐え忍ぶゾウのように、私は非難を耐え忍ぶ。実に多くの人々は不道徳であるから。

321

調教されたゾウは式典に連れて出され、調教されたゾウは王に乗られる。自らを調教して人の中で最上となる者は、世間の非難を耐え忍ぶ。

322

調教されたロバは優れている。また、シンドゥー河のほとりで育った駿馬も優れている。また、巨大な霊獣の中ではゾウが優れている。しかし自分を調えた者は、それより何より優れている。

323

これらの優れた動物に乗ったからといって、未踏の地である涅槃に行くことはできない。自分をよく調教し、その調教によって自分を調えた者こそが涅槃に到達する。

324

「ダーナパーラ(富を守る者)」という名前のゾウは、発情のため気性が荒くなる状態にもかかわらず大人しく捕獲された。なぜなら他者を傷付けないよう溢れ出る血気を抑えていたからである。また、与えられた食べものも口にせず大人しくしていた。なぜなら霊獣の森にいる盲目の母のことを心配していたからである。

325

食べ過ぎては、眠気におそわれ、ごろ寝し、眠りを貪る者。このように餌で育てた大豚のように愚鈍な者は、返す返す母胎に入り再生する。

326

以前のこの心は、欲するままに、安らぐままに、欲求が赴くところへ彷徨っていた。しかし今こそ私は、この心を容赦なく制御しよう。ゾウ使いがカギを引っかけて暴れ狂うゾウを制御するように。

327

汚れた心を放っておくことなく注意深く観照することを楽しむことによって、自分の心を守れ。泥沼に沈んだゾウを引き上げるように、汚れた場所から自分を引き上げよ。

328

もしも正しく生活する賢者を、連れだって歩く賢い友として得たのなら、あらゆる困難を克服することに適った、観照(気付き)ある暮らしが送れるであろう。

329

もしも正しく生活する賢者を、連れだって歩く賢い友として得ていないのなら、征服した王国を捨てる王のように、ゾウ林の中に住むゾウのように独りで歩め。

330

愚かな者と親交するぐらいなら、独りで歩む方が優れている。ゾウ林の中に住むゾウのように独りで歩め。また、欲張って悪いことをするな。

331

思わぬことが起こったときにいる友は、安らぎである。どんなことでも満足することは安らぎである。命が尽きるときの利徳は安らぎである。すべての苦しみを捨てることは安らぎである。

332

この世では、母への親愛は安らぎであり、父への親愛もまた安らぎである。この世では、修行者であることは安らぎであり、聖職者であることもまた安らぎである。

333

老いるまで徳行を守ることは安らぎである。信心が確立していることは安らぎである。智慧を得ることは安らぎである。諸々の悪いことをしないことは安らぎである。


第22章 解説

「ゾウ」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から、「ゾウを説明に用いたもの」を主に取り上げています。内容に一貫性はありませんが、以下のようにまとめてみました。

要点
もしもこの世界の中で一時の安らぎを得たいのなら、人々を傷付けることを恐れ、森にいる母を心配して食事もノドを通らないほど優しいゾウ(前世の私)のように、家族や友人を大切にしなさい。そして、もしもこの世界の外で永遠の安らぎを得たいのなら、愚かな家族や友人から離れ、世間からの非難など構わず王国を捨てるほど勇ましい王子(今世の私)のように、独り自分で自分を調教ていきなさいと説いているのでしょう。


次の雑記

雑記82

参考にした文献

ブッダの真理のことば・感興のことば

■著 者:中村元
■発売日:1978年1月
■値 段:1,111(税込)/岩波文庫