2020-07-02

2020-05-15

第14章 覚者(ブッダ)

ダンマパダ:真理の言葉


179

その者の勝利は失われることはない。世界においては、誰もその者の勝利に達することはない。(なんの)足跡もなく果てのない境地にいるその覚者を、どのような足で辿れるであろうか?

180

その者には、(抜け目のない)網のような執着心も、どこかに連れ出される欲望もない。(なんの)足跡もなく果てのない境地にいるその覚者を、どのような足で辿れるであろうか?

181

瞑想に熱心な賢者たちは、離欲による寂静を喜ぶ。観照あり正覚者であるその者たちを、神々さえも羨む。
※ サティ(念):気付き

182

人間として生まれることは難しく、人間として生きることは難しい。正しい真理を聞くことは難しく、覚者が出現することは難しい。

183

すべての悪いことをすることなく、善いことを成し遂げること。(そうすることにより、)自分の心を清めること。これが諸々の覚者の教えである。

184

諸々の覚者は「忍耐と寛容は最高の苦行であり、涅槃は最高(の境地)である」と説く。(忍耐力も寛容さもなく)他者を傷付ける者はまったく出家者ではない。他者を悩ます者は修行者ではない。

185

非難しないこと。傷付けないこと。道徳を尊守すること。食事の適量を知ること。(喧噪から)離れたところで暮らし坐ること。心の成長のためにヨガをすること。これが諸々の覚者の教えである。
※ 心意をつなぎ止めておくこと。瞑想

186

「愛欲のなかでは、金貨の雨が降ろうと満足が見つかることはない。愛欲(によって得られる快楽)とは、楽しみの少ない苦しみである」と、賢い者はよく理解している。

187

完全なる正覚者の弟子は、欲望の滅尽を楽しむ者である。その者はたとえ天国のものであろうとも、愛欲のなかにある楽しみに向かうことはない。

188・189

人々は恐怖にかられて、山、林、緑地、樹木、祭祀場など、実に多くの救済所へ足を運ぶ。

(しかし)事実として、これらの救済所は安泰ではなく最上ではない。これらの救済所にすがっても、すべての苦しみから解放されることはない。

190・191・192

しかしもしも人が、覚者と、真理と、修行者とを救済所にしたのなら、正しい智慧により4つの聖なる真実を観る。

①苦しみ ②(苦しみの)原因 ③(苦しみの)超越 ④苦しみを寂静に導く聖なる八支の道

事実として、これらの救済所は安泰であり最上である。これらの救済所にすがるのなら、すべての苦しみから解放される。

193

高貴な人は得がたい。その者はどこにでも生まれ(る人では)ない。そのような賢い者が生まれるところの一族は、(幸福な)安らぎが栄えるであろう。

194

覚者の出現は安らぎであり、正しい真理の教示は安らぎであり、修行者たちが団結することは安らぎであり、(修行者たちが)団結した苦行は安らぎである。

195・196

もしも礼拝するにふさわしい、(心に形成された)虚像を乗り越え、憂いと悲しみを越えた覚者、あるいは(覚者の)弟子を礼拝するのなら、

涅槃に達して何の恐れもないそのような者たちを礼拝するのなら、いかなる者にもこの功徳を計ることはできない(ほどの多大な功徳を得るであろう)。


第14章 解説

「覚者」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から「覚者の特性に関するもの」を主に取り上げています。原語は『ブッダ(budha)』であり、「覚めた者」を示しています。ダンマパダの言葉は、ゴータマ・シッダッタと呼ばれていた人間が、「ブッダ」となって後、説いたものです。

要点

覚めた者は、もはや人間ではありません。その者を理解することは原理的に不可能です。しかし覚めた者の教えは単純で「汚れた心を清らかにしなさい」というものです。この覚めた者の教えを聞く者、信じる者の功徳は計り知れません。その者たちは、これまでに徳行を積んできた者たちです。その者たちは、汚れた喧噪の世界から離れて、清らかな寂静の世界へ行くことを喜ぶ者たちであり、瞑想行に熱心な者たちです。そのような者たちこそ、心を明晰に観察し、真偽を見極め、涅槃に達する者たちです。

神、彫像、墓石、まじない、占いなどを救済所として頼っても、それは束の間の安心を与えてくれるだけで、まったく無益です。それらの救済所は、あなたに真理を理解させてはくれず、あなたの苦しみの原因である汚れた心を清めてはくれないからです。真理の教えだけが、唯一あなたを救済してくれます。さあ、覚めた者の教えを聞きなさい! ①誤解の世界は苦しみです ②苦しみは誤解から生起します ③誤解を止滅する方法があります ④それは八正道と呼ばれるものです。この4つの聖なる真実を信じて、八正道を実践しなさいと説いているのでしょう。

八正道

1.正見:

  1. 誤った見方の人生は苦しみであると見ること
  2. 苦しみは誤った見方から生起すると見ること
  3. 苦しみは滅尽することができると見ること
  4. 苦しみを滅尽する8つの方法があると見ること

「誤謬」に基づいた見方をしないこと


2.正思:

  1. 貪愛(喜び楽しみ/快楽を求めること)を思わないこと
  2. 憎悪(憂い悲しみ/苦痛を避けること)を思わないこと
  3. 憎悪(怒り憎しみ/敵意を満たすこと)を思わないこと

「貪愛、憎悪」に基づいて思考をしないこと


3.正語:

  1. 虚言を語らないこと
  2. 無駄に語らないこと
  3. 陰口を語らないこと
  4. 暴言を語らないこと
  5. ※ 虚言は嘘に限らず、真理に反した虚偽「妄信」も示す。

「貪愛、憎悪、誤謬」に基づいて発語をしないこと


4.正業:

  1. 無益な殺生を行わないこと
  2. 窃盗を行わないこと
  3. 浮気な交際を行わないこと

「貪愛、憎悪」に基づいて行為をしないこと


5.正命:

労働とは、自他共生のための自然な営みであり、例えば、利益向上(お金儲け)、事業拡大、競争の勝利、昇進などのために働くことではありません。

「貪愛、憎悪」に基づいて仕事をしないこと


6.正励:

  1. 未だない「貪愛、憎悪、誤謬」が起らないように励むこと
  2. 既にある「貪愛、憎悪、誤謬」を取り除くことに励むこと
  3. 未だない「非貪愛、非憎悪、非誤謬」が起るように励むこと
  4. 既にある「非貪愛、非憎悪、非誤謬」を保つことに励むこと
  5. ※ 非貪愛:貪愛への無関心。
    ※ 非憎悪:憎悪への無関心。
    ※ 非誤謬:正しい見解。正知。

「貪愛、憎悪」に基づいて励まないこと


7.正念:

観照とは、「する」ことではなく「在る」ことであり、「思考する」ことでも「認識する」ことでもありません。それは今現在の思考に「気付いている」ことであり、今現在の認識に「気付いている」ことであり、今現在のあらゆる「認識対象」を見守る態度です。

今現在、疑いなくある「意識・気付き・存在」として【在る】こと。認識対象との自己同一化を離れること


8.正定:


三昧とは、ある認識対象に心意が留まり続けることにより、その認識対象のみが認識されている状態であり、認識の主体である自我が認識されなくなった状態です。ですから三昧は、没我状態、忘我状態、無我状態などとも呼ばれています。

『私』が消えても「意識・気付き・存在」は【在る】と知ること。『私』との自己同一化を離れること



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