2020-07-02

2020-05-15

第24章 欲望

ダンマパダ:真理の言葉


334

汚れた心を放っておく人間の欲望は、絡み付くツルクサのように成長していく。その者は、森でサルが果実を求めるように、アッチコッチと漂っている。

335

人が世界に執着するのなら、卑しい欲望に打ち負かされる。その者たちの悲しみは、雨が降った後のビーラナ草のように(激しく)増える。

336

しかし、人が世界で征服しがたい卑しい欲望を打ち負かすのなら、その者たちの悲しみは、ハスの葉の(上で撥じかれスーっと流れ落ちる)水滴のように(撥じかれスーッと)消え失せる。

337

ここに集まったあなたたちに伝える。「幸せでありなさい。ビーラナ草の根っこ(を掘り起こし香料を手にするか)のように、欲望の根っこを掘り起こせ。アシのように、返す返す押し寄せる悪魔に流されるな」

338

根っこが強固で無傷であるのなら、切断された木でも再び成長する。(同じように)潜在する欲望が根絶されていないのなら、この苦しみは返す返す起こる。

339

人に起こる36の流れは、快楽へと向かう激しい流れである。(この)流れは貪愛に基づく思考であり、誤った見解をしている者を運んでいく。
※ 下記に説明

340

その流れはすべてのところへと流れ、(欲望の)ツルクサは芽生えてはびこる。その(欲望の)ツルクサの発生を目撃して、智慧によって根こそぎ断ち切れ。

341

また、(快楽により)歓喜が生じる人間には淫らな流れが押し寄せる。その者たちは快楽に依存した安らぎを求める者であり、まさに誕生と老いを経験する者である。

342

欲望によって突き動かされる人々は、捕獲されたウサギのようにジタバタする。欲望の束縛に執着する人々は、長きに渡って返す返す苦しみを経験する。

343

欲望によって突き動かされる人々は、捕獲されたウサギのようにジタバタする。そうであるから、修行者は(快楽への関心がなくなる)離欲を願い、欲望を除去せよ。

344

林から出たのに林へ向かい、林から放たれたのに林へ駆けていく。束縛から解放されては、まさにその束縛へと走っていくその者を見てみよ。

(なぜならあたかも消えたかのように見えるその欲望は、別の「名前と色形」を装い、再び現れるからである。そうであるから、欲望そのものを根こそぎ除去しなければならない。)

345・346

賢い者は、鉄で溶接されたもの、木で組み立てたもの、麻で編まれたものを、頑丈な結束であるとは言わない。しかし、宝石や耳飾りに対する執着、子供や妻/夫に対する愛情

を頑丈な結束であると言う。賢い者は、じわじわ重く解放されがたいこの結束さえも断ち切り、求めることなく愛欲と安楽を捨てて巡行する。

347

クモが自分で作った網のなかで暮らすように、貪愛に馴染んだ者たちは、自分で作った(快楽へと向かう激しい)流れのなかで暮らす。賢い者は、この流れさえも断ち切り、求めることなくすべての苦しみを捨てていく。

348

生存の彼方にある岸に達し、前世を離れよ。来世を離れよ。今世を離れよ。すべての物事に対する執着から解放された心意は、再び誕生と老いを経験することがない。
※ 彼岸:涅槃、悟り

349

激しい貪愛を清浄であると見なすほど思考が混乱した者は、より多く欲望を増やしながら、実に頑丈な結束を作っていく。

350

しかし、この世界は不浄であることを観察する修練をし、常に観照あり、思考が静まることを楽しむ者は、この悪魔の結束を断ちきり終わらせるであろう。

351

究極に達して恐れがなく、欲望を離れて汚れがない。生存の矢を切断したこの身は最後の身体である。

352

欲望を離れて執着がなく、聖典の語意を熟知し、文字の配列、前後の脈絡を知る者。まさにその者は、最後身、大智慧者、大人物などと呼ばれる。

353

私は、すべての欲望に打ち勝った者、すべてを知る者、すべての対象に執着のない者である。自分自身によって「すべてを放棄し、欲望を滅尽し、輪廻から解脱した」と完全に悟ったのであり、いったい誰を師と呼ぶことができるであろう。

354

あらゆる寄与に、真理を聞き与えることが打ち勝つ。あらゆる味わいに、(聞くと響き渡る)真理の味わいが打ち勝つ。あらゆる喜びに、真理(を知ること)の喜びが打ち勝つ。欲望の滅尽は、あらゆる苦しみに打ち勝つ。

355

富は智慧のない者を打ち果たそうとも、彼方なる岸を求める者たちを討ち果たすことはない。智慧のない者は(自身が抱える)富への欲望によって、他者を打ち果たすように自分を打ち果たすものである。

356

田畑は雑草で荒らされ、この世の人々は貪愛で荒らされる。そうであるから、貪愛を離れた者に寄与することは大きな果報となる。

357

田畑は雑草で荒らされ、この世の人々は憎悪で荒らされる。そうであるから、憎悪を離れた者に寄与することは大きな果報となる。

358

田畑は雑草で荒らされ、この世の人々は誤謬で荒らされる。そうであるから、誤謬を離れた者に寄与することは大きな果報となる。

359

田畑は雑草で荒らされ、この世の人々は欲求で荒らされる。そうであるから、欲求を離れた者に寄与することは大きな果報となる。


第24章 解説

「欲望」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から、「欲望に関するもの」を主に取り上げています。ここでは「欲望」と題しましたが、原語は「渇き、欲望、願望」などを示す『タンハー(taṇhā)』であり、「渇愛」と訳されてもいます。

また、339句にある「36」とは、12処に対してそれぞれ渇愛(貪愛・有愛・無有愛)があるので「12×3=36」種類となります。これらの用語については第21章の解説下をご参照ください。 こちら

要点
特定の欲望をどれだけ満たそうと、どれだけ離れようときりがなく、欲望に従うほど足枷は重くなり、欲望から逃れがたくなるというのが真理です。例えばある男性に満足しようと、別の男性にも惹かれるものですし、ある男性から離れようと、別の男性には惹かれるものです。なぜならそれは「貪愛と憎悪」に従っているだけであり、欲望そのものは依然として残っているからです。

つまり欲望は根っこを保ちながら、次から次へと新しい枝葉(名前と形体)へと変貌を続け、人を「貪愛と憎悪」へと延々と駆り立て続けるものです。なぜなら心意は、快楽を経験したのならその記憶に基づいて快楽に吸引する「貪愛」を否応なく起こし、苦痛を経験したのならその記憶に基づいて苦痛に反発する「憎悪」を否応なく起こすものだからです。

さて、その欲望の元には「快楽を愛してこそ、苦痛を憎んでこそ、私の苦悩を除去することができる」などとする「誤謬」が潜んでいます。ところが、まさにその貪愛、憎悪、誤謬によって、私の苦悩は延々と繰り返されているのですから、まずは「快楽を愛することから離れてこそ、苦痛を憎むことから離れてこそ、私の苦悩を除去することができる」という真理を信じ、理解し、欲望から離れることを熱望することが大切です。

そして例えば、この世界で認識されるすべては不浄であることを観察することによって離欲は起こります。なぜなら人は、「清い」と認識するものに惹かれ好み、「汚い」と認識するものを忌み嫌うからです。すべてが清らかではないことを観察できたのなら、何を認識しようと清い/汚いと分別する作用は止まり、貪愛と憎悪もまた起らなくなるのです。

あるいは、記憶に基づき否応なく反応する心意を注意深く観照しておくことによって離欲は起こります。なぜなら人は、自分が経験していると認識すること、つまり自分と対象とが一体化することによって、対象への執着を起こしているからです。気付きによる観照によって、自分は経験していないと認識すること、つまり自分と対象とが弁別化することによって、人は対象への執着を離れるのです。

どんな方法にしても行きつく先は同じです。そこに生じる智慧は「清/汚、愛/憎、好/嫌、優/劣、正/誤、自/他……」などと記憶に基づいた分別という虚像の活気を奪う力であり、すべてを平等同一として観る力です。虚像は虚像として観られたとき、虚像としての役割を終えるのです。この記憶に基づく虚像こそ欲望の根っこです。ですから修行者は、虚像を虚像とする見解に従い、虚像を実像とする見解を破壊し、欲望を根こそぎ断ち切りなさいと説いているのでしょう。

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