2020-07-02

2020-05-15

第19章 真理者

ダンマパダ:真理の言葉


256

自己主張によって利徳を判断する者が、(真理を確立した)真理者であることはない。賢者は(真理によって)利徳と不利徳の両方を見分ける。

257

自己主張によらず、真理によって、正しさによって他者を理解する者が、真理の守護者、智慧者、真理者などと呼ばれる。

258

(真理について)多くを語るというだけで賢者なのではない。安穏な者、恨みのない者、恐れのない者が賢者と呼ばれる。

259

(真理について)多くを語るというだけで真理の保有者なのではない。しかし、(真理について)少しだけ聞き、真理を身をもって観る者。真理を放ってはおかない者。その者こそ実に、真理の保有者である。

260

白髪頭であるというだけで長老なのではない。(単に)その齢を重ねた者は、無駄に老いた者と呼ばれる。

261

真実、真理、非傷害、自制、調教を備える者。その者こそ実に、汚れを吐いた者、賢者、長老などと呼ばれる。
※ アヒンサー:傷付けない。非暴力

262

端正な者とは、語りの雄弁さ、あるいは見栄えによるのではない。嫉妬のある者、物惜しみする者、ずる賢い者は、端正な者ではない。

263

しかし、これら(嫉妬、物惜しみ、ずる賢さ)が根こそぎに断たれ除去された者は、怒りを吐き出した者、智慧者、端正な者などと呼ばれる。

264

頭を丸めることによって静志者となるのではない。虚言を語り、(きりなく)貪るような不徳の者が、どうして静志者であろうか?
※ サマナ(沙門):「静まる者(修行者)」を示す。

265

しかし、微細なものから粗大なものまですべての悪を静める者は、まさに諸々の悪が静まったからこそ、静志者と呼ばれる。

266

他者に食べものを乞うだけで托鉢僧なのではない。不正な習慣を維持しているのなら、それだけで托鉢僧にはならない。
※ ビク(比丘):「乞う者(修行者)」を示す。

267

根本に従う生活をする者は、(善行による)利徳と、(悪行による)災難を無視して、この世界を見極めて行く。実にその者こそ托鉢僧と呼ばれる。
※ ブラフマン(梵)

268・269

愚昧で、明知者ではないのなら、沈黙しているからといって沈黙者なのではない。しかし賢者は、(善悪を判断する)天秤を持っているかのように最善を選びとり、
※ ムニ(牟尼):「黙する者(聖者)」を示す。

悪を避ける。その者は、それにより沈黙者であり、この世界における最善を黙示する者は、それにより沈黙者と呼ばれる。

270

生きものを傷付ける者が聖者であることはない。すべての生きものを傷付けないことによって聖者と呼ばれる。

271

(涅槃に達するのは、)徳行や禁制によってでも、博識によってでも、三昧に至ることによってでも、(世俗の喧騒から)離れて暮らすることによってでもない。

272

(煩悩を滅尽することによって、)私は普通の者の知らない離欲の安らぎに達した。修行者よ、煩悩の滅尽を得ていない者は安心してはならない。


第19章 解説

「真理者」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から「真理者の特性に関するもの」を主に取り上げています。ここでは「真理者」と題しましたが、原語は「真理に立つ者」を示す『ダンマター(Dhammaṭṭha)』であり、「法行者、法住者」などと訳されてもいます。

要点
真理の確立者である真理者は、実のところ何によっても判断することのできない者です。丸坊主かもしれませんし、長髪かもしれません。着飾っているかもしれませんし、フンドシ1枚かもしれません。雄弁に語りかけるかもしれませんし、沈黙しているかもしれません。それでも、恩着せがましく無理に真理を教え聞かせるとか、単に真理について多くを語るだけとか、単に沈黙ししているだけという者ではありません。

聖者、尊者、覚者、至上者、沈黙者、真理者などと呼ばれる者たちは、すべての煩悩を滅尽した者です。記憶に基ずくすべての虚像(行:潜在印象)を滅尽した者です。それによってこの虚像世界を超越し、真実(涅槃)に達し、生と死、欲望と恐怖から解放された者です。「貪愛・憎悪・誤謬」という悪いことをする動機が消滅しているので、人々を助ける善いことのみが"自然と起こります"。

修行者は、真理を聞こうと、徳行に励もうと、世俗から離れて暮らそうと、三昧に至ろうと、根本煩悩である「無明(真実に対する無知)」が除去されるまで、油断してはいけません。安心してはいけません。真実を知ったなら安心だけが残るでしょう。もしも欲望と恐怖が残り、世界の見え方が変わっていないのなら、自分の問題は解決していません。自分の問題を解決するまで、煩悩の除去に邁進しなさいと説いているのでしょう。

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