第25章 修行者
眼によって(悪魔の侵入から自分を)守るのは善い。耳によって(悪魔の侵入から自分を)守るのは善い。鼻によって(悪魔の侵入から自分を)守るのは善い。舌によって(悪魔の侵入から自分を)守るのは善い。
身体によって(悪魔の侵入から自分を)守るのは善い。言葉によって(悪魔の侵入から自分を)守るのは善い。心意によって(悪魔の侵入から自分を)守るのは善い。(このように、眼・耳・鼻・舌・身体・言葉・心意の)すべてによって(悪魔の侵入から自分を)守るのは善い。すべてによって(悪魔の侵入から自分を)守る修行者は、すべての苦しみから解放される。
手を制御し、足を制御し、言葉を制御し、最高に自分を制御し、静かな心内を独りで楽しみ満足する。その者を修行者という。
動揺なく(落ち着きはらった)修行者が、口を制御して経典を語り、その意味と真理とを明らかにするのなら、その言葉は(うっとりするように)甘美である。
真理を喜び、真理を楽しみ、真理を思いながら、真理を観照する修行者は、正しい真理から没落することはない。
自分の得たものを軽んじて(不満を抱いて)はならない。他者のものを羨ましがってはならない。他者のものを羨ましがる修行者は、三昧に達することはない。
もしも修行者が、自分の得たものが少しであろうと軽んじることがないのなら、怠けることなく清らかな生活をしているこの者を、神々は必ずや称賛する。
すべての名前と色形に対して、「私の所有である」とする見解はない。そして所有しなくても悲しむことはない。実にその者こそ修行者と呼ばれる。
覚者の教えを確信し、慈愛ある生活をする修行者は、想念の静まった安らぎ、寂静の境地に達するであろう。
修行者よ、この船から水を汲み出せ。汲み出したのなら速く進むであろう。貪愛と憎悪とを断ち切るのなら、その後(速やかに)涅槃に達するであろう。
五(下分結)※を切り、五(上分結)※を捨てよ。そして更に五(根)※を修行せよ。五(大煩悩)※の執着を超えた修行者は、激流を渡った者と呼ばれる。
※ 下記に説明
修行者よ、汚れた心を放っておくな。瞑想をせよ。あなたの愛欲の対象に心を楽しませるな。汚れた心を放っておくことによって焼けた鉄球を飲むな。飲みこんだ後になって焼かれながら「これは苦しい!」などと泣き叫ぶようなまねはするな。
智慧のない者に静慮※はなく、静慮のない者に智慧はない。静慮と智慧とがあるその者こそ、まさに涅槃の近くにいる。
※ ジャーナ(禅那):瞑想状態。無努力に心意が留まっている心理状態
(誰もいない)空き家に入った(かのように)静かな心の修行者は、正しい真理を観照するという非人間の楽しみがある。
(現象世界を構成している要素である)蘊※が、現れる刹那、消える刹那、これを如実に観照するその刹那。不死を了知したその者は、歓喜を手にする。
※ 下記に説明
感覚器官を(見張り、悪魔の侵入から自分を)守ること。満足すること。道徳によって(悪魔の侵入を)防ぐこと。この世の智慧ある修行者にとって、これが抱くべき初志である。そして怠けることのない清らかな生活をする善い友に親しめ。
(何事も)歓迎する習慣があり、心の清浄行に熟練しているのなら、歓喜に満ちて、苦しみの終わりを迎えるであろう。
ジャスミンの花が、枯れて(無用となった花びらを自ら離して)解放するように。修行者たちよ、そのように(無用となった)貪愛と憎悪(を自ら離して世界)から解放せよ。
身体が静かであり、言葉が静かであり、正しく静まった心意が寂静である。世界の富(そのものといえる喧噪)を吐き出した修行者は、寂静者と呼ばれる。
自分によって自分を励ませ。自分によって自分を調査せよ。自分の守衛、観照ある修行者は、安らいで生きるであろう。
事実として自分は自分の守衛であり、事実として自分は自分の拠点である。そうであるから、賢い商人が馬を制御するように、賢い者は自分を制御せよ。
覚者の教えを信じ、歓喜に満ちた修行者は、心の形成作用※が止滅した安らぎ、寂静の境地に達するであろう。
※ サンカーラ(行)
若い修行者であろうと、覚者の教えに従い努力するのなら、その者は雲を離れた月のように、この世界を照らすであろう。
「修行者」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から、「修行者の特性に関するもの」を主に取り上げています。ここでは「修行者」と題しましたが、原語は「托鉢僧、食べものを乞う者」などを示す『ビク(bhikkhu)』であり、「比丘」と音訳されてもいます。
真理の教えを実践する修行者は、苦しい病気になってから日頃の生活を悔いるような愚か者ではいけません。病気にならなくても日頃の生活を調えているような賢い者であるべきです。修行者とは、独り自分で自分を守ることを楽しむ者です。徳行を実践することによって、苦しい災難から自分を守る者です。眼、耳、鼻、舌、身体、心意を使って快楽を求めようと走り出す心意を見張り、苦しい災難から自分を守る者です。
ですから修行者はまず初めに、「自分で自分を守りきろう!」という意志を強固に抱きなさい。そして「①貪愛 ②憎悪 ③誤謬 ④我慢 ⑤疑心」こそが自分を攻撃してくる悪魔であるというのが真理ですから、修行者はこれらの悪魔を追い払うために「①真理を信じよう! ②徳行に励もう! ③観照を保とう! ④無我に至ろう! ⑤真理を知ろう!」という意志を強固に抱きなさい。そして独り寂静に安らぎ「自分を守りきる」という初志を貫徹しなさいと説いているのでしょう。
五下分結:
- 有身見:個体が存在するとする見解
- 疑心 :真理を疑う心意
- 戒禁取:作法に執着する心意
- 貪愛 :快楽を愛好する心意
- 憎悪 :苦痛を嫌悪する心意
これらを合わせて五下分結と呼ばれる
五上分結:
- 色貪愛 :対象を愛好する心意
- 無色貪愛:対象の不在を愛好する心意
- 我慢 :私は存在するとする見解
自他を比較する心意(慢心) - 掉挙 :散動する心意
- 無明 :真実を知らない心意
これらを合わせて五上分結と呼ばれる
五根 :
- 信心 :真理を信じる能力
- 奮励(正励):徳行に励む能力
- 観照(正念):今現在に在る能力
- 三昧(正定):私の不在を認識する能力
- 智慧(正見):真理を解する能力
これらを合わせて五根と呼ばれる
五大煩悩:
- 貪愛:快楽を愛好する心意
- 憎悪:苦痛を嫌悪する心意
- 誤謬:真理に対する誤った見解
- 我慢:私は存在するとする見解
自他を比較する心意(慢心) - 疑心:真理を疑う心意
これらを合わせて五大煩悩と呼ばれる
五蘊 :
- 色蘊:対象(色、音、香、味、体感、想念)
- 受蘊:対象から感受された感覚
- 想蘊:感覚から想起された想念
- 行蘊:想念から形成された行為
- 識蘊:感覚、想念、行為の認識
これらを合わせて五蘊と呼ばれる