2020-07-24

第6章 瞑想

バガヴァッド・ギーター:至高者の詩


原文の順番通りだと前後の脈絡が整然としていない箇所がありましたので、番号はそのままに順番を変更しています。

1.威光ある至高者が答える。

行為の結果を無視した為されるべき行為を為す者。その者は放棄者でありヨガ行者なのです。その者は家を棄てる者でもなければ行為をしない者でもないのです。

※ 原文は「祭火のない」

2.

王パーンドゥの息子よ、あなたはその者たちが「放棄」と言明したこのヨガを知りなさい。(結果を企てる)意図が放棄されていないヨガ行者など誰もいはしないのです。

3.

ヨガに登ろうとする修行者にとって根底にあるのは(意図のある)行為であると言われ、ヨガに登った者にとって根底にあるのは(意図のない)寂静であると言われています。

4.

諸々の感覚対象にも行為にも執着することなく、すべての意図を放棄したとき、そのときヨガに登ったと言われています。

5.

自己によって自己を支えるのなら、その者は自己に落ちぶれることはないでしょう。(しかし自己によって自己を支えないのなら、その者は自己に落ちぶれることでしょう。)


まさに自己とは自己にとっての結束の固い親族でもあり、(自己を落としめる)敵対者でもあるのです。

6.

(つまり)自己によって自己が克服された自己にとって自己は結束の固い親族ですが、(自己が克服されておらず)敵意のなかに住んでいる非我にとって自己は敵対者なのです。

※ アナートマン:非自己、自我

7.

(自己によって自己が)克服され、静められた自己にとっては、寒暑苦楽のなかであろうと毀誉褒貶のなかであろうと、高我と統一されています。

※ パラマートマン:至高の自己、真我

8.

粘土、岩石、黄金に対して平等なヨガ行者は、智慧と識別智によって自己が満たされ、感覚器官が征服され、最高位(の真我)につなぎ止められた者と言われているのです。

※ ヴィジュニャーナ:真偽(実在と幻影、自己と非自己)を識別する智慧

9.

友人、味方、敵、中立者、第三者、憎しみのある者、親族において、また善人と悪人において平等と知覚する(平等知見を有する)者は、大いに尊ばれるものです。

10.

心の制御された自己は、期待することも所有するものもなく、独り密かな場所に留まっているものであり、ヨガ行者はいつのときも自己を(ヨガに)つなぎ止めているものです。

11.12.13.

自分にとって高すぎることも低すぎることもない安定した坐椅子を、草と皮と布を敷き重ねた清浄な場所に置き、


そこに坐法を組んで坐り、真っ直ぐの体幹、頭、首を不動の安定に保たせ、周囲を見させることなく自身の鼻先を見て、心意にひとつの対象を掴ませて、


心理器官と感覚器官の活動が制御された(ヨガ行者は)、自己浄化のためのヨガにつなぎ止められているのです。

15.

このように、いつのときも自己を(ヨガに)結合させている制御された心意のヨガ行者は、私に内在する究境の涅槃、寂静に達するのです。

16.

アルジュナよ、ヨガ(との結合)は、食べすぎる者にはありませんし、何一つ食べない者にもありません。また、眠りすぎる癖のある者にはありませんし、(眠らず)覚めている者にもありません。

17.

苦しみを滅するヨガ(との結合)は、適量な食事を楽しむ者にあり、諸々の行為において適切な行動をする者にあり、適量な睡眠と覚醒をする者にあるのです。

18.

制止された心が自己のなかに留まるとき、すべての愛欲から逃れるでしょう。そのときその者は「(ヨガに)つなぎ止められた者」と言われています。

19.

ヨガ行者の制止された心とは、ヨガに結合している自己とは、「あたかも風のないところに立っている灯火が揺れ動かないようなもの」と聞かされています。

20.

ヨガへの奉仕によって制止させられた心がソコに立ち止まっているとき、また自己によって自己を観ているとき、その者は自己のなかで満足しているのです。

21.

また本質的に揺れ動くことなくソコに立っているその者こそが、知覚が捉える感覚を超えた永遠の安らぎを知るのです。

22.

また(永遠の安らぎに)遭遇した者であるのなら、他のものに遭遇したとしても最高のものではないと考えます。


(ソコに)立っている者においては、重い苦しみによっても(軽い楽しみによっても)揺れ動かされることはないのです。

23.

その者は「苦との結合からの分離」と知られたこのヨガを知ることでしょう。このヨガとは、落ちぶれることのない確固とした意志によって、(自己に)つなぎ止められるものです。

24.25.

意図から生じる愛欲を余すことなくすべて棄て、(四方八方へ向かう)感覚器官の集団を心意によって全方位くまなく制止し、


心意を自分自身に向けた後には、少しも思惟させるべきではないのです。堅固に保たれた自覚によって、次第に、次第に、その者は立ち止まることでしょう。

※ ブッディ(覚):知覚・認識器官、知覚・認識、知見・見解、知性・理性、理解・判断

26.

定まることなく動きまわる心意はアッチコッチへと向かいます。アッチコッチへ向かうこの心意を自己のなかに引きとめ支配下に置くべきです。

27.

静められた心意のそのヨガ行者にこそ、激動性※1が寂滅された汚れのない根本存在※2、至高の安らぎが訪れるのです。

※1 ラジャス:激動質、歪曲性 ※2 ブラフマンブータ

28.

このように、いつのときも自己を(ヨガに)結合させており、汚れに離れさられたヨガ行者は、根本との接触、永遠なる安らぎに安らかに到達することでしょう。

29.

ヨガにつなぎ止められた自己は、どのようなときも同じものを見ています。その者は万象に存在している自己を見ていますし、万象を自己のなかに見ているのです。

30.

すべてに私を見る者は、私のなかにすべてを見てもいるのです。その者にとっては私が見えなくなることはなく、私にとってもその者が見えなくなることはないのです。

31.

万象に存在している者は、唯一私だけに向けられた敬意を払っているものです。このヨガ行者はどのように生きていようとも、私のなかに留まっているのです。

32.

(万象に存在している)自己との比較によって、安らぐときあるいは苦しむとき、どのようなときも同等であると見ている者。アルジュナよ、このヨガ行者は何より優れていると見なされてきました。

33.アルジュナが答える。

マドゥスーダナよ、このヨガは平等なるあなたによって説かれたものです。(しかし)この私は動揺しているため、安定した立脚地が見えないのです。

34.

クリシュナよ、心意は確実に揺れ動き、掻き乱れ、力強く、頑なに固められているのです。私はこの捕獲を、風のように非常に捕まえがたいと思っているのです。

35.威光ある至高者が答える。

確かにマハーバーフよ、揺れ動く心意は捕まえがたいものです。しかし妃クンティーの息子よ、修習※1と離欲※2とによって、これは捕獲されるものです。

※1 アビャーサ:繰り返しの練習 ※2 ヴァイラーギャ(離貪愛):貪愛から離れた心理態度

36.

制御されていない自己によるのならヨガは到達しがたいというのが私の見解です。しかし努力するという方法によって、従順な自己によるのなら到達することは可能なのです。

37.アルジュナが答える。

(ところで、私には気になる疑問があるのですが、)信心によって着手されていたヨガから心向きが逸れてしまい、努力しなくなった者は、ヨガの達成に到達されることはないでしょう。


クリシュナよ、その者はどのような進路を歩むのでしょう?

38.

(智慧と行為)どちらも奪いさられ、根本の正道のなかで惑わされ拠り所を失った者は、マハーバーフよ、ちぎれ雲のように消えさるのではないでしょうか?

39.

クリシュナよ、あなたは私のこの疑問を余すことなく断つことができるでしょう。なぜならこの疑問の伐採者はあなたの他にはいないのですから。

40.威光ある至高者が答える。

妃プリターの息子よ、現世であろうと他世であろうと、その者の消失が見られることはないでしょう。なぜなら善行を為す者は誰であれ、悪路に向かうことはないからです。

※ アルジュナ

41.

ヨガから落ちぶれた者は、善行者の世界に赴き、悠久の年月(そこに)留ったのなら(再びこの地に赴き)、清純で威光のある者の家庭に生まれることでしょう。

42.

あるいは賢明なヨガ行者たちの親族のなかに生まれることでしょう。このような事例で誕生することは、この世界において本当に遭遇しがたいことなのです。

43.

そこでその者はかつての行為を因としてこの知見と関わりあうことに遭遇するのです。クルの子孫よ、そこでその者は再び達成に向けて努力しはじめるのです。

※ アルジュナ

44.

その者のかつての修習によってその意思に関わらず(ヨガに)魅かれてしまうものです。


またその者は、(実在としての根本を知る)ヨガの探求に関心を持ちはしても、(机上の空論に過ぎない)言葉としての根本に関心を持つことはないでしょう。

45.

(実在としての根本を知ろうとする)意志から努力しており、(心の)汚れが清められ、幾多の誕生(の終焉)を達成したヨガ行者は、至高の行きどころに行きつくのです。

46.

ヨガ行者は、苦行者たちよりもなお優れており、有識者たちよりなお優れていると見なされてきました。そしてまたヨガ行者は、(慈善)活動家たちよりも優れているのです。


ですからアルジュナよ、あなたはヨガ行者となりなさい。

47.

(また)すべてのヨガ行者たちのなかでも、内なる自己によって私まで導かれ、私を信じ、私に敬意を払う者は、私のために私に最もつなぎ止められた(最も優れた)者と見なされてきました。

14.

根本に従う(禁欲的)生活の誓いを守り、心意が制御されて私につなぎ止められ、恐怖に離れさられて静められた自己が、私に没頭して坐っているべきなのです。


(ですからアルジュナよ、私以外の何ものにも心寄せることなく、私のみを愛しなさい。)

※ ブラフマチャーリン(梵行)


第6章 解説

「瞑想」と題されているように、瞑想(ヨガ)について、クリシュナが説明しています。ここでの「瞑想」の原語は『dhyāna(ディヤーナ)』であり「静慮」とも訳されています。ちなみにパーリ語では『jhāna(ジャーナ)』であり仏教では「禅那、禅定、禅」とも音訳されています。

要点

アルジュナよ、あなたが勘違いしないように繰り返しましょう。行為ヨガにおける「行為の放棄」とは、行為の結果を放棄することであり、言葉を変えて言うのなら、期待に基づき善悪一方に偏った「意図」を放棄することであり、それは善い結果であれ悪い結果であれ、あらゆる結果を平等と見なすことです。

このように意図を放棄しようとするヨガ行法は「離欲」と呼ばれ尊ばれています。ヨガ行者は、いついかなるときもこの離欲を心掛けており、意図を抱いた行為を慎んでいるものなのです。そしてすべての意図が放棄されたそのときこそ、離欲の達成であり、平等知見であるヨガに登ったと言われているのです。

そしてそのためにも、意図を抱いて感覚対象へ彷徨いでる心意を「自己」につなぎ止めておこうとするヨガ行法が「修習」と呼ばれ尊ばれています。ヨガ行者は、いついかなるときもこの修習を心掛けており、意図を抱いた心意が彷徨いでることを慎んでいるものなのです。これは「瞑想」あるいは単に「ヨガ」とも呼ばれています。

ヨガ:瞑想ヨガ

ここでの瞑想ヨガとは、「瞑想による行為の放棄」を示しています。これまでの記憶に基づく「貪愛」と「憎悪」に従い、期待ある意図を抱いて感覚対象へと彷徨いでる心意を、「自己(私感覚、存在感覚、中心感覚、その場、今ここ、意識)」につなぎ止めておこうとする努力のことです。

  1. 静寂、安定、清潔な場所に坐椅子を置く
  2. 坐椅子に坐法を組んで坐る
  3. 姿勢を直立不動に安定させる
  4. 心意を「自己」につなぎ止めておく

心意が対象に囚われていると自覚した時点で、直ぐさまその心意を自己に引き戻す作業の繰り返しが修習であり、瞑想と呼ばれています。自覚したその時その場で、何度でも何度でも引き戻すことにより、つまりは絶え間なく自覚を保つことにより、次第に、次第に、自己に留まるようになるのです。

過不足注意

過食不食、過眠不眠、過動不動などは、眠気、倦怠感、無気力、不活発などを招き自覚を保ちづらくなります。一方に偏ることなく満腹と空腹、覚醒と睡眠、活動と休憩のバランスをとることにより、自覚を保ちやすくなります。

規則正しい生活が修行生活の基本ということです。

自己によって克服されていない心意とは、その本性から何かしらの期待、意図を抱いた「貪愛」と「憎悪」に従い感覚対象へと彷徨いでるものです。しかし、この暴れ馬のような心意を「自己」につなぎ止めておこうとする確固とした意志を奮い立たせて瞑想に励む者こそが、ヨガ行者と呼ばれ誰よりも尊ばれてきたのです。

さらに修行者たちのなかでも、私を目的とし、私のみを求め、私のみを愛する者は、苦労することなく安らかに私に近づくのです。しかし、私以外の何かを愛する者たちは私から遠ざかり、努力の甲斐なく私に近づくことに苦心するのです。ですからアルジュナよ、あなたは私のみを愛する最も優れたヨガ行者になりなさい。


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