第5章 行為の放棄
クリシュナよ、あなたは(智慧による)行為の放棄に加え、ヨガ(による行為の放棄)もまた賛美しておられます。2つのなかでより優れた方を、私に説いてくだされよ。
(智慧による行為の)放棄と行為ヨガ(による行為の放棄)のどちらも至福をもたらします。それでも2つのうちでは(智慧による)行為の放棄より、行為ヨガ(による行為の放棄)の方が優れています。
憎むことなく、期待することのない者は、常に放棄者※1であると理解されるべきです。マハーバーフ※2よ、2極として知覚されている両極を同一と見る者は、安らかに束縛から解放されます。
愚かな者たちは、理論とヨガを別々に語りますが、賢い者たちは語りません。(なぜなら)どちらか一方が正しく遂行されたのなら、どちらの成果も同じように見出すもの(だから)です。
(つまり)理論によって見いだされる立場は、ヨガによっても同じように達せられるのです。理論とヨガとを同一のものと見ている者。その者は(正しく)見ています。
しかしマハーバーフ※1よ、(理解による)放棄は(行為による)ヨガなしに達成することは難しいのです。(行為による)ヨガに心意をつなぎ止めた沈黙者※2は、間もなく根本※3に到達することでしょう。
ヨガに心意をつなぎ止め、感覚器官が制され、自己が清められ、自己が征服された者は、万象すべてが自己となり自己が万象となります。その者は(行為を)為していようと(業報※の)汚れに染まることはないのです。
(私に)心意がつなぎ止められ(自己の)本質を知る者は、見ていようと、聞いていようと、触れていようと、嗅いでいようと、味っていようと、動いていようと、眠っていようと、呼吸していようと、「私は何も為していない」と見ていることでしょう。
(また)その者は、お喋りしていようと、(矢を)射っていようと、(弓を)掴んでいようと、目を開いていようと閉じていようと、「(単に)感覚器官が感覚対象に関与している(だけのこと)」ということを熟知しているのです。
根本のなかに諸々の行為を放置して、(行為の結果への)執着を手放して(行為を)遂行している者は、水によって汚されることのないハスの葉のように、悪事によって汚されることはないのです。
身体によって、思惟器官によって、知覚器官によって、あるいは単に感覚器官によって、ヨガ行者たちは自己を清めるために、(結果への)執着を手放して行為を遂行します。
(私に)心意がつなぎ止められた者は、行為の結果を手放して究境の寂静に到達します。(一方)心意をつなぎ止めていない者は、果報に囚われた愛欲衝動によって束縛されます。
思惟器官によるすべての行為を放棄して、為すことなく、為させることなく、九門ある城郭都市※のなかでその支配者(たる自己)は安らかに在ります。
世界の支配者(たる自己)は、行為者を造ることなく、諸々の行為を造ることなく、行為の結果と結びつくことなく、ただ自己の本性から行動しているのです。
支配者(たる自己)は、誰かの悪事を受けとることも、善行を受けとることもないのです。(しかし)智慧が無智によって覆われることによって人々は(、自己を)見誤り(誰かの悪事、善事を受けとり)ます。
智慧によって無智が失わされた人々の自己にとって、智慧は最高のソレを太陽のように輝かせます。
ソレを目的とし、ソレに没頭し、ソレに目覚め、ソレを自己とした人々は、智慧によって煩い悩まされた(心の)汚れが取り除かれ、今世限りの再誕生に赴き(2度と死ぬことも生まれることもない解脱に至り)ます。
学識と礼儀が備えられた聖職者※、牡ウシ、ゾウ、またイヌ、イヌを調理する者においても、賢者たちは平等に見ています。
心意が平等に(見る立場に)留まっているということによって、その者たちのこの地への再誕生は克服されています。なぜなら根本は偏見なく平等に(見る者)であるため、その者たちは根本に留まっている(ことが明らかだ)からです。
根本のなかに留まっており根本を知る者は、決然として見誤ることなく(平等に見ているため)、親切なことに出くわしても喜ぶことなく、不親切なことに出くわしても嫌がることはないでしょう。
外界との接触に囚われていない自己は、自己のなかにある安らぎを知っています。根本との結びつきにつなぎ止められた自己は、不滅の安らぎに達しているのです。
まさに接触から起こる快楽こそが苦しみの母胎なのです。(ですから)妃クンティーの息子※よ、覚者は始まりと終わりを有しているそのなかで楽しむことはないのです。
この地で身体解離※より先に愛欲と怒りから起こる衝動を克服することができる者は、(永遠の)安らぎにつなぎ止められる人です。
内に安らぎがあり、内に歓びがあり、そしてまた内に明かりがあるヨガ行者は、(至福である)根本涅槃、(実在である)根本存在に到達します。
(行為による心の)汚れが滅尽された聖仙たちは、(至福である)根本涅槃に遭遇します。二元性が断ち切られ制御された自己は、すべての生きものが恵まれていることを楽しみます。
意志が制御され、愛欲と怒りが離され、自己が知られた修行者たちにとって、根本涅槃は周囲に転がっています。
解放を目的に身を投じ、外界との接触を離れ、視線を眉間に(向け)、鼻孔の内を流れる呼気と吸気を均衡にし、感覚と思惟と知覚とが制御され、欲望と恐怖と怒りに離れ去られた沈黙者。実にその者こそいつでも解放された者です。
苦行祭儀の享受者であり、全世界の大君主であり、万有の友である私を知るのなら、その者は寂静に達します。
「行為の放棄」と題されているように、行為の放棄について、クリシュナが説明しています。第5章は、アルジュナが「ヨガ行者にとっての行為ヨガ」と、「理論家にとっての智慧ヨガ」のどちらがより優れているのかを問うところから始まります。
それにしても『バガヴァッド・ギーター」は、「ヨガ、行為ヨガ、ヨガ行者、行為の放棄、智慧ヨガ、理論家」などなどが何を示しているのか、わざわざ理解しづらくするような言葉遣いですね……。
ここでの行為ヨガとは、「行為による行為の放棄」を示しています。これまで為してきた行為の果報である業報によって定められた義務を遂行することです。それはつまり、有益を求め無益を恐れ、成功を求め失敗を恐れ、善報を求め悪報を恐れなど、「二元性」という誤謬を放棄することであり、二極のうち一方を意図した「貪愛」と「憎悪」に従った悪行を為さないことです。
ここでの智慧ヨガとは、「理解による行為の放棄」を示しています。行為とは自然の気質による作用であり、自己ではなく自然によって為されている現象であると理解することです。それはつまり、「私は行為者である」という誤謬を放棄することであり、「私は行為者ではない」という理解に基づいた立場から行為を遂行することです。
アルジュナよ、「行為ヨガ」と「智慧ヨガ」は、異なる山道から同じ山頂を目指すようなものなのです。行為ヨガにより、「二元性」という誤謬に囚われることなく結果を求めることのない行為を遂行するのなら、「行為者」という幻想から解放されて平等知見の智慧に辿りつきます。一方で智慧ヨガにより、「行為者」は幻想であることを如実に理解するのなら、「二元性」という誤謬から解放されて平等知見の智慧に辿りつくのです。
しかし結局のところ、どちらの山道であれ山頂に住んでいる私に辿りつくためには、私を目的として、私に心意をつなぎ止める必要があります。①「貪愛」と「憎悪」に従って外側に見える感覚対象へ向かう心意を引っ込めるために、内側に在る私に留まっているべきですし、②「私は行為者ではない」という正知を理解するためにも、非行為者としての私に留まっているべきなのです。
アルジュナよ、あなたはもうこの紺碧色の色形、あるいはクリシュナ、マーダヴァ、フリシーケーシャ、アチュータ……などなどの名前がこの私であると信じてはいませんね。ここで私が言っている【私】とはあなたのことでもあり、あなたの自己を示しています。この私は「智慧、根本、涅槃、至福、寂静、実在、絶対、生命、真我……」などとも呼ばれています。
しかしこの私は、有にして無、空にして充、絶対無相であり、この私には如何なる言葉も想像も及ぶことはありません。この私だけが存在しています。生まれ消えいく万象は幻影であり存在してはいません。私は表面的な万象の内に根本として常在しており、私なしには如何なる事象も現れることはなく、その観点においては、私はまた万象でもあるのです。アルジュナよ、あなたは沈黙し、寂静であるこの私に留まりなさい。