第20章 道
(人として歩むべき)道のなかでは(八正道と名付いた)八支のものが最上であり、真実のなかでは(四聖諦と名付いた)4句のものが最上であり、真理のなかでは離欲(と名付いた快楽と苦痛への無関心)が最上であり、二足のなかでは(覚者と名付いた)眼のある者が最上である。
事実として、(人として歩むべき道であり、誤った)見解を清めるための道はこれの他にありはしない。まさにこの道は(誤った見方をしている)悪魔を尻込ませるのであるから、あなたたちはこれを実践せよ。
まさにこの道をあたたたちが歩むのなら、苦しみの終わりを迎えるであろう。完全なる智慧によって(悪魔の)矢を抜き取った私によって、この道はあなたたちに教示されたのである。(そうであるから、そこに疑う余地などありはしない)。
あなたたちは、するべきことを熱心にせよ。覚者※は教示者に過ぎない。(この道を)実践する瞑想者は、悪魔の束縛から解脱する。
※ 原文は「如来」
記憶に基づいて形成されるすべてのものは常在ではないと、智慧によって(諸行非常を)観照するとき、(無明による)苦しみを離れる。これが心を清めるための道である。
記憶に基づいて形成されるすべてのものは苦しみであると、智慧によって(諸行苦を)観照するとき、(無明による)苦しみを離れる。これが心を清めるための道である。
意識のなかに現れては消えるすべての認識対象は自己ではないと、智慧によって(諸法非我を)観照するとき、(無明による)苦しみを離れる。これが心を清めるための道である。
奮起する(べき)ときに起き上がらない者、若くて力があるのに怠け癖のある者、思考することにも心意を向けることにも覇気のないぐうたらな者は、智慧によって(人としての歩むべき)道を見つけ出すことはできない。
(悪い)言葉を慎み、心意を制御すること。身体によって悪行をしないこと。これら3行為の道によって(心を)浄化するのなら、聖仙が説く道を達成するであろう。
ヨガ※によってこそ広大な智慧が生じる。ヨガなしでは広大な智慧は滅びる。(智慧が)生まれる道と(智慧が)失われる道。この2つの道を知って、智慧が増えていく(道を歩める)ように自分を確立せよ。
※ 心意をつなぎ止めておくこと。瞑想
何をどれだけ欲するのかに対処するのではなく、欲望そのものに対処せよ。恐怖は欲望そのものから生じるため、修行者たちよ、欲望そのものを断って(恐れのない安らぎである)涅槃に達せよ。
欲望そのものを断たない限り、(たとえ)男性の女性に対する愛欲が微量であろうとも、それだけではその者の心は(愛欲に)束縛されたままである。子牛が母牛(に寄り添ってそ)の乳を飲むように。(いまだその者は愛欲に寄り添ってその快楽を味わっている。)
秋に咲くハスの花を手で切り離すように、自分の愛執を切り離せ。覚者※によって教示された涅槃、寂静の道のみを修養せよ。
※ 原文は「善逝(ぜんせい)」
「ここで雨期を過ごそう。冬季は、夏季は、ここで過ごそう」などと愚かな者は考える。(しかし自分に差し迫っている)難事を理解することはない。
(愛する)我が子や家畜に夢中になり、(目の前の快楽に)心意が執着している者を、眠った村を奪いさる大洪水のように、死神が奪いさっていく。
息子は救済者としているのではない。父親も親族も救済者としているのではない。死神に捕えられた者は、親族にも救済できない。
賢い者はこの道理を理解し、徳行によって(心意を)制御する。涅槃まで導いてくれる道を歩み、速やかに(心を)清めよ。
「道」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から「人が歩むべき道に関するもの」を主に取り上げています。言葉を変えて言うなら「道徳、徳行、人道、仁義、倫理」などであり、具体的には「八正道」のことを示しています。八正道については第14章の解説下をご参照ください。 こちら
人生の目的を成就した覚者によって、人として歩むべき道である「八正道」は説かれました。この八正道を実践していくのなら、制御された心は自ずから静まるでしょう。そしてそのときこそ、何者によってでもなく智慧によって【諸行非常・諸行苦・諸法非我】の観照が起こり、無明(虚像の自己)は除去され、人生の目的である涅槃に達するときです。
人の身体は死滅します! 人が手に入れた何もかもは、心を清めることなく、苦しみを取り除くことなく、身体と共にあっけなく消え去るものです。ですから、目の前の快楽や苦痛にばかり目を向けていては、人生の目的に近づくことなく、あっという間に死んでいることでしょう。汚れたままの心を残して! この脅威から逃れるために、今こそ目的に目を向けて、弛まず焦らず「道」を歩んでいきなさいと説いているのでしょう。