第11章 老い
いったい何が喜びであろう!? 何の笑いがあるのであろう!? 常に燃えており、暗黒によって覆われている(世界にいる)にもかかわらず、(いったい何故)灯明を求めようとしないのであろう!?
見てみよ。心によって形成された想像物を。(形成要素が)寄せ集められた肉体を。痛手のある肉体を。病気のある肉体を。希望の多い肉体を。そこには永続する生存はない。
老いて朽ちたこの身体は、病気の巣であり壊れやすい。事実として、命とは死が終局であり、朽ちた身体は破壊される。
秋に投げ捨てられたヒョウタン(のように転がっているそれら)こそ、ハトのような色をしている骨である。それらを見て何の楽しみがあるのか!?
肉と血によって塗られており、骨で作られた城。そこには、老いと、死と、慢心と、偽善とが配備されている。
事実として、絢爛たる王の車は老朽化するし、肉体もまた老いに近づく。しかし、善人の真理が老いに近づくことはない。実に、善人(の真理)は善人によって知らされる。
(真理を)少しも聞かない者は牡牛のように老いる。その者の贅肉は増える(としても)、その者の智慧が増えることはない。
(私は、)『私※』の作者を探し求めていたが、見つけ出すことなく無数に生死の輪廻を流転した。繰り返される人生は苦しみである。
※ 家
『私※』の作者よ! お前は(正体を)見られた! 再び『私』を作ることはないであろう! (『私』を形成していた)お前のすべての要素は壊れ、お前はその形成力を失った! 形成力を失った心は、ついに欲望を滅尽するに至った。
※ 家
青年期において財産を得ることなく、根本※に従う生活もしていないのなら、まさしく魚のいない沼にいる老いたシラサギのように(哀れに)消えるであろう。
※ ブラフマン(梵)
青年期において財産を得ることなく、根本※に従う生活もしていないのなら、過去のことを嘆き悲しみ、捨てられた弓のように横たわるであろう。
※ ブラフマン(梵)
「老い」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から「老いる身体に関するもの」を主に取り上げています。
身体は、生まれ、老い、病み、死ぬというのが真理です。ですから、身体の若々しさを保とうとしたり、美しく見せようとする努力は、必ず徒労に終わることを理解しなさい。どれほど努力しようと死に終わり、苦しみを取り除くこともありません。しかし、心の汚れを取り除く努力は、決して徒労に終わりません。それは努力する分だけ苦しみを取り除き、ついには生と死の輪廻からの解放にまで連れていってくれるものです。ですから、自他の身体に執着することなく、真理に適った徳行に努め励みなさいと説いているのでしょう。