第5章 愚者
眠らない者にとって夜は長く、疲れた者にとって一里の距離は長いように、正しい真理を理解しない愚かな者にとって輪廻は長い。
もしも修行者が、自分よりも優れた者か、あるいは自分と等しい者を見つけられないのなら、独りの生活を堅固にするべきであり、愚かな者と親しんではならない。
「子は自分のものである。財は自分のものである」と愚かな者は悩まされる。(しかし)自分さえも自分のものではないのに、どうして子や財が自分のものであろう。
その愚かな者が(自分は)愚かであると考えるからこそ、その者は賢者と言われる。しかし愚かな者が(自分は)賢者であるという慢心があるのなら、実にその者こそは愚者と言われる。
愚かな者は、たとえ命ある限り賢者に仕えるとしても真理を理解しない。匙が汁の味を理解しないように。
智者は、たとえ一瞬だけでも賢者に仕えるとしても即座に真理を理解する。舌が汁の味を理解するように。
悪いことをするのなら、その辛い果報が(必ず)ある。(このように)浅はかで愚かな者は、自分こそを敵として歩んでいる。
やってそれを(泣いて)後悔するのなら、やったその行為は善くない。その泣いた者は、涙を流してその果報を受ける。
しかし、やってそれを後悔しないのなら、やったその行為は善い。善良な者は、満ち足りてその果報を受ける。
愚かな者は、悪(報)が煮えきるまでは、甘い蜜のように思っている。しかし、悪(報)が煮えきったとき、そのときに愚かな者は苦しみを受ける。
愚かな者が、(苦行者の風習にならって)月々、食べものを草の先に付けて食べることをしても、その者は、真理を究めた者の足元にも及ばない。
まさに悪いことをした行為とは、牛乳がすぐには固形化しないようなものである。(それは)灰に覆われた火のように、燃えながら愚かな者に付いていく。
愚かな者に思慮が生じても無益である。それは愚かな者の安らぎを害し、その頭を破壊している(だけであろう)。
(愚かな者は、)修行者たちにおいては尊敬、また住居においては主権、また他者の家においては供養などと、不実の修行(の成果)を求める。
「在家者と出家者のどちらも、種々の素行は何事においても私だけに主権があり、私が執り行ったと思え」などと言う愚かな者の思考には、欲求と慢心とが増える。
一方は利得に導く道であり、他方は涅槃に至る道である。ブッダの弟子である修行者はこのようによく理解して、尊敬(されるなどの利得)を喜ぶことなく、(涅槃に至るための)真偽の弁別を修めるのがよい。
「愚者」と題されているように、ブッダが説いた言葉の中から「愚かな者の特性に関するもの」を主に取り上げています。
愚かな者は、自分で自分を苦しめているという真理を理解していません。つまり苦しみは「貪愛、憎悪、誤謬」などの汚れた心に従うことから起こるという真理を理解していません。それさえ理解したのなら、もはや自分で自分を苦しめるという愚かな行為を止めていく賢い者です。何より大切なことは、自分で自分を苦しめているという真理を理解することですと説いているのでしょう。