ヨガの八支則(P33〜38)

心髄

♨ まんぐーす爺さんの教説から習う


ヨガへの道を進みゆくも者よ。

私が誰かを知りたい探求者よ。


外側に浮かぶ複数の円(思想)へ関心を向ける事を、放棄し続けなさい。

内側の中心に在る一点(私)にのみ関心を向け続け、そこに留まりなさい。

心髄

やがて、すべての円(思想)は消滅するじゃろう。

そして、内側と外側は一つの背景(意識)に溶けるじゃろう。

その時、純粋意識である私は独り在るじゃろう。

私は誰かが知られ、探求は終焉するじゃろう。


私はー私であるーである。


私以外の私を信じる迷夢を放棄しなさい。

夢から覚めなさい。

♨︎ 直接的方法

夢から覚める事は出来たじゃろうか? あっはっはっ。今試した事、それが、ヨガへの直接的な方法の比喩的体験であり、ヨガの心髄なのじゃ。留まる対象が違えども、それは実際の取り組みとまったく同じじゃ。この比喩的体験に成功したならば、おぬしは心髄を体得しておるとさえ言える。さあさあ、それを信じて進むのじゃ。

それでもおぬしは「いいえ、実際にはそう簡単ではないはずです」などと弱音を吐くじゃろうか? その様な単なる『思い(言葉)』は捨て去るのみじゃ。「ですが……」などと再び弱音を吐くじゃろうか? それも『言葉』に過ぎぬ。その場で即座に捨てなさい。良いかな、良くよく覚えておきなさい。すべては単なる『言葉』に過ぎぬ。それだけじゃ。実に心髄とは、それら『言葉』を捨てるだけの事じゃから、難しくなどない。その事を良くよく自覚し、気楽に、そして熱心に進むのじゃ。

ヨガへの道を進みゆく者は、あらゆる『言葉(観念)』を重要視する事を止め、捨てゆく習慣を作るのじゃ。

♨︎ 修習と離欲

さて、ここでの内側の中心に在る一点(私)とは、観照意識、気付きとしての<私>を示しておるのじゃ。それは、非顕現である純粋意識として在る真我が、顕現である世界と遭遇する一点として在る中心感覚じゃ。それはまた「私」という自己感覚(自我)、或いは「在る」という存在感覚、或いは「私は在る」という自己存在感覚、或いは「目覚めている」という覚醒感覚、或いは「今ここに在る」という現在感覚、などの感覚を含んでおるのじゃ。心髄の意図とは、 ―― 外側に浮かぶあらゆる思想に注意を向けず、内側の中心に在る感覚にのみ注意を向け続ける事 ―― なのじゃ。その態度は、次の二つの行法により進展する。

修習:内側に常在する<私>に留まる心の不動状態の習慣を獲得する事

離欲:外側で生滅する<他>へ彷徨う心の散動状態の習慣を排除する事

この二つの行法が、ヨガへの道の心髄なのじゃ。修習と離欲の達成こそが、ヨガ ―― 心の作用の消滅 ―― そのものなのじゃ。内側に常在する<私>へ留まる習慣により、外側で生滅する<他>へ彷徨う習慣は破壊される。逆に、外側で生滅する<他>へと彷徨う習慣を破壊する事により、内側に常在する<私>へ留まる習慣は獲得される。即ちそれらは、<私>への献身によって導かれる同じ<ヒトツ>の行法と言えるのじゃ。

キリストは「狭い門から入りなさい。破滅へ導くその門は広く、その道は易く、それから入る人は多い。生命へ導くその門は狭く、その道は難く、それを見つける人は少ない」などと説いたと伝わる。その見た目通り、内側に在る一点は狭き門じゃ。外側に浮かぶ複数の円は広き門じゃ。周りを見るならば誰も皆、内側に在る一点には目もくれず、外側に浮かぶ円にのみ関心を向けておる事が即刻知られるじゃろう。

そう、成熟する準備の出来たまことに稀有な者のみが、狭き門へ導かれ、そこから入る事に挑む真のヨガ行者と成るのじゃ。心髄を明確に理解した者は、師も、経典も、様々な補助的なヨガ行法も、その役割を終えた事を知るじゃろう。そしてその者は、内なる真我を師とし、真我への献身を以って、真我以外への関心を断ち切り、<私>に留まることを選択するのじゃ。それは、本旨に沿った、本来のヨガ行法へと入ったという事じゃ。

ブッダもその最期に「自らを燈火とすること。実践法を燈火とすること。他者を燈火としないこと。自らに献身すること。実践法に献身すること。他者に献身しないこと。(自灯明、法灯明、勿他灯明、自帰依、法帰依、勿他帰依)」などと説いたと伝わる様に、自らの努力に献身しなさい。修習と離欲に献身しなさい。ところでこのお爺さんは次の様にも説く。「思想覚対象を燈火とする勿れ。思想覚対象に献身する勿れ。(勿法灯明、勿法帰依)」と。これは偶像崇拝の禁止を意味する言葉なのじゃ。偶像とは単なる『想い(形象)』である故、それは崇拝するに及ばず、捨て去るべきものなのじゃ。

ヨガへの道を進みゆく者は、あらゆる『形象(観念)』を重要視する事を止め﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅、捨てゆく習慣を作るのじゃ。

♨︎ ヨガは、ヨガ

さて、このまったく単純と言える修習と離欲の達成へと導くために、様々な補助法としてのヨガ行法が派生していったのじゃ。その事それ自体は良くも悪くもなく必要であったとも言える。じゃがそれによって、手段に囚われ、目的を見失い、彷徨う者が増える結果を招いたのもまた事実であり、それはまったく本末転倒なのじゃ。勿論、分かっておるね? 彷徨う心を制する事こそが、ヨガの本旨なのじゃよ。

古来より、ラージャ・ヨガ、ハタ・ヨガ、カルマ・ヨガ、ジュニャーナ・ヨガ、バクティ・ヨガなどと様々な呼び名の「ヨガ」があり、それは一見、様々な種類のヨガがある様に見えるじゃろう。じゃがしかし、それらもすべて修習と離欲の達成へと導くための行法であり、それは単に、表面的な特徴を表す呼び名の違いであり、各々のヨガの内には「ラージャ、ハタ、カルマ、ジュニャーナ、バクティ」の要素すべてが含まれており、また含まれておらねばならぬのじゃ。本来それは同じ<ヒトツ>の目的へと向かう、同じ<ヒトツ>の行法であり、単に ―― ヨガ ―― なのじゃ。

各要素を総合的に保ち、様々な戒行、瞑想を主とした心理的制御行法は、ヨガ、或いはラージャ・ヨガ(王道・ヨガ)と呼ばれ、様々な身体操作を主とした生理的制御行法はハタ・ヨガ(ちから・ヨガ)と呼ばれ、奉仕を主とした行為行法はカルマ・ヨガ(行為・ヨガ)と呼ばれ、探究を主とした明知行法はジュニャーナ・ヨガ(明知・ヨガ)と呼ばれ、献身を主とした信愛行法はバクティ・ヨガ(信愛・ヨガ)と呼ばれておるのじゃ。

真我への瞑想こそがラージャ・ヨガ(ハタ・ヨガ)の心髄であり、真我への奉仕こそがカルマ・ヨガの心髄であり、真我への探究こそがジュニャーナ・ヨガの心髄であり、真我への献身こそがバクティ・ヨガの心髄なのじゃ。分かっておるね? これらはどれもまったく同じ態度﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅を示しておる。即ち、修習と離欲という態度じゃ。一見して入り口は違えど、五つの要素は一つに溶けており、無論の事、それは同じ出口へと至る。

そして、分かっておるね? 真我への瞑想、行為において修習と離欲を成功させるのは、真我への信愛の強さである事を。「ほうほう。そうであるのなら、バクティこそが最も本質を付いた名前ですね?」「いやいや。そもそもヨガとは、真実、明知の探究そのものなのだから、ジュニャーナこそが最も本質を付いた名前でしょう」「まてまて……」 こらこら。良いかな、ヨガはヨガであり、それをどう呼ぼうが、それも単なる『言葉』に過ぎぬのじゃ。ヨガも、ヨーガも、バクティも、ジュニャーナも、捨ててしまいなさい。

♨︎ 囚われから進む

各々が、各々の気質に合うヨガを自然と選ぶ。心の苦に囚われた者はラージャへ、肉体の苦に囚われた者はハタへ、運命の苦に囚われた者はカルマへ、無知の苦に囚われた者はジュニャーナへ、創造の苦に囚われた者はバクティへ向く事じゃろう。囚われから入るのは自然な事じゃ。囚われとは興味関心であり、何であれ、最も関心の持てるヨガを選ぶのが最適と言えるじゃろう。

今現在、親しまれておる主流なヨガは、ハタ・ヨガから派生した『アイアンガー・ヨガ、アシュターンガ・ヨガ、シヴァナーンダ・ヨガ、パワー・ヨガ』などじゃ。それらはどれも、生理的制御から入り、心理的制御へと向かう行法と言えるじゃろう。それは、如何に現代人が、「肉体」に囚われておるのかを示唆しておる。無論、見てくれに囚われるのは愚かじゃが、肉体が健全であることは喜ばしい。肉体は非常に大切じゃ。肉体あってのヨガじゃ。じゃがしかし肉体とは、それ自体が放棄されるために現れておる愛おしい『思想』に過ぎぬのじゃ。

ヨガへの道を進みゆく者は、どの囚われから進もうとも、その囚われから自由に成る道を真摯に進むが良いのじゃ。

♨︎ 重要でないもの、重要なもの

重要でないものを重要視しておる事、即ち、重要でないものに関心を持つ事、それが悲しみや悔しさ、あらゆる苦しみを引き起こす原因じゃ。そうであるならば、するべき事は一つしかないね? 重要でないものを重要視する事を止め、重要である事に関心を持つ事、それだけじゃ。

捨ててしまいなさい。

大切なものを。

より大切なもののために。

そうじゃ、そのためには自分にとって大切なものとは何なのかを見極める必要がある。おぬしに苦悩をもたらすものであるならば、それは重要で大切なものとは言えず、おぬしから苦悩を取り除いてくれるものであるならば、それは重要で大切なものと言えるのではないじゃろうか?

自身に苦悩をもたらすものを重要視しておる事が、苦悩をもたらすという単純な道理を理解しなさい。悲しさや悔しさという結果が起こる原因を調べ、その原因が無いならば悲しさや悔しさが起こらぬ事を見抜きなさい。おぬしが何を欲し求め、何を恐れ避けておるのか、それがあらゆる苦悩を起こす原因である故に、それを調べなさい。その苦の種である『観念(言葉と形象)』を大事に保持しておる故に、苦しみは起こる事を見て取りなさい。

そして重要なのは、重要でないものを、大切でないものを、捨てゆく勇気と覚悟なのじゃ。

♨︎ すべての言葉と形象を超えて

成熟した心 ―― 自我 ―― は、変化する多様なものを重要視し、関心を持つ事は苦悩の道でしかないと良くよく自覚しておる。不変で純粋なものに関心を持つ事が幸福への道であると良くよく自覚しておる。不変、純粋、幸福、自己を愛しておる。変化、多様、苦悩、幻想に無関心と成り、不変、純粋、幸福、自己の感覚に留まる様に成る。変化して止まない『思い:思考』と『想い:想像』は、単なる『言葉』と『形象』に過ぎず、単なる『名前』と『色形』に過ぎず、ただ、来ては去ってゆくだけのものとして観られる。

もはや言葉と形象には何の意味も与えなく成り、言葉と形象に振り回される事や、惑わされる事も止まる。やがて心は、自ずから﹅﹅﹅﹅言葉と形象の背後にある沈黙に留まり、自ずから﹅﹅﹅﹅沈黙し、沈黙に溶け去り、その実を落とす。無意識や潜在意識と呼ばれる無自覚的な心の潜在的作用は、顕在意識と呼ばれる自覚的な層へと溶け去り、個人的『私』は、観照者としての<私>に溶け去り、観照対象の消滅と共に<私>は、純粋無垢な実在としての【私】に溶け去る。

ヨガへの道を進みゆく者は、その時が訪れるまで、私への献身を真っ直ぐと貫き、迷わず、熱心に、すべての言葉と形象を超えてゆくのみじゃ。


さあ、外側を放棄し、内側に留まり、静かになりなさい。


心髄


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