ハタ・ヨガの修行法(P87,88)

修行

♨ まんぐーす爺さんの教説から習う

修行や鍛練は、技を磨く、腕を磨く、自分を磨く、切磋琢磨せっさたくまなどの様に「磨く」という言葉で表現されてきた。即ち、それは小手先の技術を増やし、獲得してゆく事などではない。その逆に、それは技術を阻害する余計な行為を減らし、排除してゆく事をそのむねとしておるのじゃ。武術、芸術、運動競技スポーツなどにおいても、技術の成長度合いを測るのは、心身に衝突した無理な行為が減り、より心身と調和した自然な行為に純化されておるかどうかなのじゃ。熟練した鍛冶屋かじやが繰り返し鉄を練り、鍛え、磨き、やいばを研ぎ澄ましてゆくかの如く、技を磨いた優れた先達は、それまでの不合理な形体わざ捨てさせる為に﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅形式かたを用いたのじゃ。

ヨガへの道を進みゆく者は、修行の本質を履き違える事無く、熱心さの炎を以って繰り返し練り、鍛え、磨き、己を輝かせてゆくが良いのじゃ。

♨ 注意

仏道に始まり、武道、芸道などの世界でも行住坐臥ぎょうじゅうざがと戒められてきた様に、日常生活が目的と協力しておらねば修行は進歩せぬものじゃ。修行道場で学んで「はい、おしまい。」では、行為はこれまでの習慣に従うばかりで、日常生活が目的を阻害し続ける事に成る故、進歩といったものは見る影も無いじゃろう。目的成就の進度とは、如何に注意深く、目的を阻害する行為にかまけず、目的に協力する行為を実践しておるかどうかに掛かっておるものじゃ。

不注意な時、人は目的を阻害する行為に遊んでしまい、人は目的に協力する行為を怠ってしまうのじゃ。何事も不注意による停滞質と激動質の現れが目的を阻害すると言うのじゃ。そして、いつ何時なんどきも注意深くある時、人は目的に協力する行為に努める事が出来るのじゃ。何事も注意深さという純粋質の現れが目的に協力すると言うのじゃ。与えられた時間を無駄にする事無く、注意深く「遊ばず怠らず」を実践する事が、修行、鍛練の指針と言えるじゃろう。

♨︎ 自己練磨

己を成長させてゆく作業は、「自分磨き、自己練磨」などと表現されてきた様に、今現在の自身にとって大切で必要な物事を見極め、邪魔で不要な物事を﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅磨き、削ぎ落としてゆく作業が人を成長させてゆくのじゃ。どうして邪魔で不要な物事に遊び、大切で必要な物事を怠っておる者に成長が望めようか。成長する必要性を覚悟さとり、怠惰と遊戯を磨き、粗略さと粗暴さを磨き、心身から停滞質と激動質の作用を削ぎ落としてゆく事により、人は徐々に成長してゆくのじゃ。

自己練磨の本質とは、自己に辿り着くまで、自己を邪魔する妄信を﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅磨き、削ぎ落としてゆく処に有る。真の自己への関心に目覚め、疑う事無く信じてきた習慣的妄信を調べ、「私はこれでもない」と磨き、「私はあれでもない」と磨き、「私はそれでもない」と磨き、自己ではないいつわりを削ぎ落としてゆく事により、人は徐々に成熟してゆき、ついにはその実を落とすのじゃ。


さあ、遊ばず怠らず磨いてゆきなさい。


修行


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