ヨガの太陽礼拝(P15,16)

不動

♨ まんぐーす爺さんの教説から習う

停滞質に偏った心の状態とは、のらりくらりと回転し、ぐらりぐらりとよろけておる独楽の様なものであり、激動質に偏った心の状態とは、ぶおんぐおんと回転し、あちらこちらと荒ぶっておる独楽の様なものと言えるのじゃ。そしてまた、純粋質に均された心の状態とは、すぅ―――っと絶え間無く回転し続け、微動だにせず一点に留まる独楽の様なものであり、古来それは、静慮じょうりょ禅定ぜんじょう、不動心、瞑想状態などと呼ばれてきた無努力に起こる精神活動﹅﹅であり、心の不均衡が治まり、し―――んと澄み切った、動中の静と呼べる動静なのじゃ。

ヨガへの道を進みゆく者は、惰性として浮かぶ妄想に陥る事無く、衝動として浮かぶ懸案事項を追い掛ける事無く、微動だにせず回り続ける独楽の如く、不断の努力によって﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅その場に留まり続けるが良いのじゃ。

♨︎ 止行:集中の瞑想

心を不動状態へと導くためには、心を特定の対象へ絶え間無く向け続けるという方法が有るのじゃ。それが古来「止行しぎょう」などと呼ばれてきた瞑想法じゃ。慣れぬ内は、注意が対象へ向いたり向かなかったり途切れ途切れに成るじゃろう。時には脈絡の無い妄想に陥り、コテンと倒れる独楽の様に、そのまま夢路ねむりに落ちてしまう事も有るじゃろう。時には懸案事項を追い掛け、留まる気の無い独楽の様に、そのまま行動に移してしまう事も有るじゃろう。じゃが、熱心さに応じて、その様な事も無くなってゆくものじゃ。

結局の処、己が何を求め、何に関心を向けておるかなのじゃ。主観的な妄想世界に関心を向ける限り、瞑想行を進展させる事は困難じゃ。例え何百年、何千年と止行に取り組もうとも、心は動揺を続けるじゃろう。

♨︎ 観行:観察の瞑想

心を不動状態へと導くためには、心をあらゆる対象から絶え間無く離し続けるという方法が有るのじゃ。それが古来「観行かんぎょう」などと呼ばれてきた瞑想法じゃ。それは、心に起こるがままを起こるがままに観察する。「私が考えている。私が話している。私が動いている」などという行為者としての立場から離れ、「考えが起こるのを観ている。話しが起こるのを観ている。動きが起こるのを観ている」などという観察者としての立場を保守する方法じゃ。それは観察対象と観察者を弁別し、観察者としての自己を自覚するための根本的態度なのじゃ。

結局の処、主観的な妄想世界の只中ただなかにおいては、例え何百年、何千年と懸命に努力しようとも、幸福に至る事など有り得ぬという事実、この事実を明確に自覚する事によって、そしてその只中に幸福すくいを求める事 ―― 関心を向ける事 ――放棄りよくされる事によって、瞑想行は真に前進するのじゃ。

人は誰も皆、幸福を探し求める。それはまったく正しい。じゃが、外側へ出向く必要は無い。何故ならそれは内側にあり、内側とは「その場」だからじゃ。


さあ、活動的にその場に留まりなさい。


不動


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