言葉
古来日本においても、言葉には霊力が宿っており、声に出した言葉は言霊と成り世界に響き渡り、その言葉通りの事象を招くなどと信じられてきた様に、使う言葉に従って世界は形作られてゆくのじゃ。その単純な理由とは、人が経験する現実とは言葉に装飾された世界だという事じゃ。「太陽」と名付き色付いた記憶観念が思想された刹那、その投影として「太陽」が時空に現れて見えるのであり、その逆ではない。各人の現在における思考が時間、想像が空間である故に、思想とは必ず一時的で主観的じゃ。即ち言葉とは、実質的に境界無く無形である<ひとつ>を、便宜的に判断し、一時の個人的世界を形作っておる道具なのじゃ。
ヨガへの道を進みゆく者は、言葉は人生を飾付ける絵具であり、言葉は人生を方向付ける指標であると自覚し、扱う言葉に注意を払うが良いのじゃ。
♨︎ 愚鈍と賢明
「味噌も糞も一緒」という諺が有る。それは「外見に惑わされず、物事を適切に判断できる人になりなさい」という教訓じゃろう。詰まりは分別無い愚鈍から、分別有る賢明への成長を促す言葉であり、分別の大事を説いておる。その通り物事とは、相対的な部分的価値においては別が有る。しかし物事とは、絶対的な全体的価値においては僅かの別も無いのじゃ。じゃから良いかね、如何なる物事にも善悪、優劣を判断せぬ者に成りなさい。差別偏見は愚鈍さ、一過性の現れであり、平等公正は賢明さ、不変性の現れに他ならぬのじゃ。
さて、「味噌」と「糞」の本質的な違いとは何じゃろう? 名の別じゃろうか? 色の別じゃろうか? 匂いの別じゃろうか? 使用法の別じゃろうか? そうじゃ、これらはすべて表面的、相対的な違いであり、このように言葉によって物事を判断しようとする限り、人はソレの上っ面を知る事しか出来ぬのじゃ。
♨︎ 幻影と真実
物事の本質とは「名前と色形」によらぬ【ソレ】じゃ。味噌の本質は【ソレ】であり、糞の本質もまた【ソレ】なのじゃ。故に賢者は断言する。「私もあなたも一緒」であると。【私】は【あなた】であり、【あなた】は【私】であると。そして言明する。【あなた】は、言葉ではない。形象ではない。【あなた】は、水面に現れては消える泡や波のような心ではなく、水のように現象の背後に遍く満ちた【意識】なのだと。ただ、「あなた」が「意識ではないもの」を「あなた」だとする妄信が、真実なる【真我】を覆い隠す障害なのだと。
「私は身体である」を皮切りに個人的世界は現れる。その言葉を確信するならば真実は隠れ、幻想は明確と成る。物体が濁る程にその影が色濃く映る様に。逆にその言葉を幻想として観照し、真実を示す言葉に耳を傾け、繰り返し思念するならば真実が現れ、幻想は曖昧と成る。物体が透く程にその影が色淡く映る様に。人は誰も皆、信じ込んでおる言葉に運ばれゆく定めなのじゃ。
さあ、真実を示す言葉を繰り返しなさい。