ヨガの八支則(P21〜28)

錯覚

♨ まんぐーす爺さんの教説から習う

ヨガとは、錯覚を見破り、虚偽を手放す道なのじゃ。例えば、自己の本性は幸福そのものなのじゃ。例え今、どれだけの苦悩を抱えておろうとも、おぬし自体は常に幸福以外の何者でもないのじゃ。にもかかわらず、何故なにゆえに幸福に満たされておらぬのか? そう、それは錯覚による。錯覚により、その幸福が覆い隠されておる故なのじゃ。自己そのものを知らぬ無知、無明により己の外側に幸福があると錯覚するならば苦悩は起こる。真の幸福への道とは、幸福を覆い隠しておる錯覚を見抜き ―― 弁別 ―― 、手放し ―― 離欲 ―― 、自己そのものへと入ってゆく事なのじゃ。

ヨガへの道を進みゆく者は、虚偽を虚偽と見破り、手放してゆくのじゃ。

♨︎ 無明:一時的錯覚

真の自己 ―― 真我 ―― を知らないという偽の自己 ―― 自我 ―― による錯覚が、『無明むみょう』とか『無知』と呼ばれておるのじゃ。また、常在でないものを常在であると思う錯覚、清浄でないものを清浄であると思う錯覚、幸福でないものを幸福であると思う錯覚、自己でないものを自己であると思う錯覚、それが無明と呼ばれておるのじゃ。その本質を言うならば、元々存在してはおらぬ『私(自我)』が、意識内に想起する事と言えるじゃろう。

即ち、自我にとって無明があり、無明とは『私』などという自我観念に結びついておるのじゃ。要するに、『私』が【常在・清浄・幸福・自己】を覆い隠しておるのであり、真我とは得ようとする何かではない。得られる何かに価値は無い。何故なら獲得可能なものは、必ず喪失されるものだからじゃ。真我とは、喪失不可能であり、始まり無く終わり無く永遠不変である故に、価値有るものと言えるのじゃ。

明知の上に覆い被さっておる障害を除去する事、それがするべきすべてなのじゃ。無明を除去する事とは、『私』が、真の自己を知る事ではない。そうじゃ、それは不可能なのじゃ。無明の除去とは、元々存在しておらぬ『私』が、単なる思想であり、観念の想起であったと見破られ、滅すると同時に起こる。その時、元々から存在しておる【明知(真我)】が自ずから明らかと成る。

この無明こそが、すべての苦悩の根因なのじゃ。故に、聖者とは『無明(自我)』が元々存在せぬ事を知るに導く者であり、聖典とは『無明(自我)』が元々存在せぬ事を知るに導く書物であり、ヨガとは『無明(自我)』が元々存在せぬ事を知るに導く行法なのじゃ。おぬしが「私は無知以外の何者でもない」という真の知識を得たならば、聖典の本質を知的に理解し、その本質そのものを自覚するためのヨガ行法を実践するが良いのじゃ。

 

♨︎ 我想:二次的錯覚

自己による観照と、心による認識作用とを同一とする錯覚が『我想がそう』と呼ばれておるのじゃ。それはまた、自己と認識する主体、自己と認識される対象とが同一視される事なのじゃ。例えば、「私は心である」「私は身体である」「私が楽しんでいる」「私が苦しんでいる」「私が考えている」「私が話している」などという錯覚の事なのじゃ。未熟な心 ―― 自我 ―― は、あらゆる対象と同一化し、その対象を自己であると認識するのじゃ。無論、我想は無明を因として起こるのじゃ。

ブッダも「諸々の心の反応は常在に非らず(諸行非常)」などと説いたと伝わる様に、心の本性とは絶え間ない生滅であり、現れては消えるという事なのじゃ。そして、常在ではない心の反応は、自己たり得ない。おぬしは生滅する者じゃろうか? それとも常在する者じゃろうか? うむ。当然誰もが、「私は常在する者です」などと答えるじゃろう。

何と! 生滅する者じゃと! じゃが、生滅する者が、どの様にして生滅を知るのじゃろう。自己とは常に在り、現れては消える思想を認識しておるのではないじゃろうか? 意識内に現れては消えるのは思想の方であり、自己は現れたり消えたりせぬのではないじゃろうか? それは誰にとっても、まったく妥当な見解に違いない。そうであるならば、この当たり前の見解に反した信念を見破るが良いのじゃ。

ブッダも「諸々の思想覚対象は自己に非らず(諸法非我)」などと説いたと伝わる様に、何であれ認識可能な対象は、自己たり得ない。おぬしは認識される者じゃろうか? それとも認識する者じゃろうか? うむ。当然誰もが、「私は認識する者です」などと答えるじゃろう。それは誰にとっても、まったく妥当な見解に違いない。そうであるならば、この当たり前の見解に反した信念を見破るが良いのじゃ。

視覚対象である「色形」、聴覚対象である「音声」、嗅覚対象である「芳香」、味覚対象である「食味」、体性感覚対象である「体感」、そして思想覚対象である「思想」は自己たり得ない。それらはすべて生滅し、認識される対象であり、生滅を認識する者ではない事は、まったく明らかな事実に違いない。

私は「私である」である(I am that I am)

聖書の中に、神はモーセに「私は、YHVHヤハウェ(私であるもの)である」と語ったとあるのじゃ。まさにその言葉通り、「私は何々である」ではなく、「私は私である」であり、自己とは自己以外の何者でもない。おぬしはおぬし以外の何者でもないのじゃ。「自己」と「対象」とを同一視する事を止め、飾りを省いた単体としての自己を自覚する事。聖書が導く救済とは、それだけの事じゃ。ヨガが導く真実とは、それだけの事じゃ。それだけの事なのじゃ。真実とは、何と、何と単純な事じゃろうか?

私が私そのものとして在る時、その時、『無明(自我)』も、元々存在しておらんかった事が、明らかに知られるじゃろう。

♨︎ 観照:観ておくこと

実に自己とは、生滅を認識する者でさえない。認識する者とは、『私』などという自我であり、それは非存在の思想なのじゃ。真の自己とは、認識する事を可能にする光源の様なものであり、認識する者、認識される対象、認識する事を超え、それらを照らし観ておる純粋な観照者であり、それらを意識しておる純粋な意識であり、それらに気付いておる純然たる気付きなのじゃ。

『私』が固く信じておる「私は何々である」などという錯覚を見破り、執着を手放すために、ヨガ行者は観照者として、浮かんでは消える思想対象を絶え間なく観ておくのじゃ。この観照こそが我想と呼ばれる錯覚を見抜く、ヨガ行法の根本的な態度なのじゃ。純粋な観照がされておる時、自己と対象は弁別される。観照されておらぬ時、自己と対象は一体と成る。

手品師による幻術トリックを見破るにも、良くよく見ておく事が要求される様に、良くよく照らし観ておくことこそが、虚偽を虚偽と、幻想を幻想と見破り、自己と対象との同一化を弁別し得る手段と成るのじゃ。思想を超えた不動の位置から、起こるがままに、起こる事を観るのじゃ。誰が ―― 、何を ―― 、ではなく、ただ、起こる事を観ておくのじゃ。言葉を変えるなら、ただ、意識しておく。或いは、ただ、気付いておく、と言える態度なのじゃ。

ただ、見る事が起こる事を。ただ、聞く事が起こる事を。ただ、感覚が起こる事を。ただ、感情が起こる事を。ただ、思想が起こる事を。ただ、話す事が起こる事を。ただ、日が昇る事が起こる事を、見る事が起こる事に、眩しさが起こる事で、「眩しい」と思う事が起こる事を。ただ、雨が降る事が起こる事を、見聞きする事が起こる事に、「傘を忘れた」と思う事が起こる事で、「どうしよう」と思う事が起こる事を。ただ、観ておく。

あらゆる﹅﹅﹅﹅物事は自然であり、言葉通り自然と起こる。物事とは、あるがままであり、自ずから然りと、ただ、起こる。故に、ただ、起こる事を、観ておくのじゃ。やがて、心の外側で起こる事と心の内側で起こる事に何の区別もなく、共にどちらも、ただ、起こっておるという事実、まったく自動的に起こっておるという事実が観えてくるじゃろう。そして、共にどちらも、私の外側で起こっておるという事実が観えてくるじゃろう。

おぬしは『心』『身体』『楽しむ事』『苦しむ事』『考える事』「話す事』などの起こる思想対象と同化し、「私は心である」「私は身体である」「私が楽しんでいる」「私が苦しんでいる」「私が考えている」「私が話している」などと確信しておる。じゃがしかし、おぬしはこれらの『事』が起こった後になって初めて ﹅ ﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅、これらが起こった事を知るのじゃ。『事』が起こってから『私』を後付し、「私は何々である」「私が何々している」と構想しておるのじゃ。

あらゆる心の作用とは、私がしようとするその前に﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅、もう既に起こっておる。私がしようとするその前に、記憶に従った心の作用が、もう既に起こっておるのじゃ。良くよく観てごらんなさい。『私』を後付する思想に気付きなさい。そこに『私』が入り込む余地の無い事に気付きなさい。そして、「私は何々である」「私が何々をしている」などと思想する習慣を破壊しなさい。

すべては心 ―― 思想 ―― なのじゃ。

『心』とは思想そのものじゃ。「私は心である」とするそれ自体が思想に違いない。『身体』は思想じゃ。『身体』という名前と色形が想起せぬ時、「私は身体である」は有り得ぬのじゃ。『私』さえも思想じゃ。『私』という名前と色形が想起せぬ時、「私は何々である」は有り得ぬのじゃ。『心』『身体』『私』などという実体は何処にも存在せぬのじゃ。すべては意識内に起こる思想に過ぎず、ただ、起こる『事』なのじゃ。

本当におぬしは心であり、身体なのじゃろうか? 本当におぬしが感じ、考え、行為しておるのじゃろうか? 調べなさい。見破りなさい。或いは、私は心でも身体でもなく、何もしていないという事実を信じ、片時も忘れず覚えておきなさい。
何であれおぬしが自分だと確信する事のすべては誤りであり、その確信を弱め、破壊するために為す事のすべては正しい

良いかな、すべての思想は偽りの自己であり、真の自己たり得ない。すべての思想を観照し、自己と思想の同一性を見破り、偽の自己が見破られたならば、心の作用の止滅が起こり、速やかに『私』と共に無明は除去される。そして、虚りの自己を超えた彼方に、自己はただ在るじゃろう。偽りの自己同一化を見破りその執着を手放すこと、それがヨガへの道なのじゃ。

♨︎ 三次的錯覚:貪愛/憎悪

条件付けられた記憶により、『私』が受ける快楽(喜び)を欲し求める心の作用である欲望が『貪愛とんあい』と呼ばれ、『私』が受ける苦痛(辛さ)を恐れ避ける心の作用である恐怖が『憎悪ぞうお』と呼ばれておるのじゃ。『私』などという自我が存在しているとする錯覚、即ち無明を根本原因とし、貪愛、憎悪は起こるのじゃ。そしてまた「私が苦しんでいる」や「私が楽しんでいる」などとする錯覚、即ち我想を原因とし、貪愛、憎悪は起こるのじゃ。

幾世に及ぶ無数の経験の記憶は、潜在的に印象として残る。これが『ぎょう』とか『潜在印象せんざいいんしょう』と呼ばれ、そこから起こる心の反応(行為)もまた『行』と呼ばれておるのじゃ。その記憶により、或る者は狭い場所を欲し求め、別の者はそれを恐れ避ける。或る者は犬を欲し求め、別の者はそれを恐れ避ける。或る者は褒められる事を欲し求め、別の者はそれを恐れ避ける。『私』は如何なる時であれ記憶に従い﹅﹅﹅﹅﹅、『私』にとっての快楽を欲し求め、苦痛を恐れ避ける。そしてまた、手に入れた快楽を『私の物』とし維持しようとするのじゃ。

ブッダも「諸々の心の反応は苦悩である(諸行苦)」などと説いたと伝わる様に、記憶により快楽を欲し求める心の反応、苦痛を恐れ避ける心の反応が、苦悩を起こす原因なのじゃ。即ち、幸福の追求それ自体が苦悩を生む原因である故に、それを止める事で苦悩も消滅するのじゃ。「そんなバカな!? 現状の苦痛を解決する努力を止めてしまったなら、それは解決されないままじゃないか!?」などと、この唯一の解決法﹅﹅﹅﹅﹅﹅を拒絶するじゃろうか? その様な拒絶は、苦悩の本質を知らぬ無知から起こり、苦悩の本質を錯覚しておる故なのじゃ。

例えば、「明日雨が降ったら予定が台無しになる。どうしよう」などと苦悩するのは「予定を遂行したい。予定の中止は避けたい」などと快楽を求め苦痛を避け、幸福を求める心の作用に原因がある。ここで、自己以外に幸福を求める愚行に気付き、幸福の追求を手放すならばどうなるじゃろう? 「予定を遂行したい」などという欲望も、「予定の中止は避けたい」などという恐怖も、「予定が台無しになったらどうしよう」などという悩みも、予定が遂行出来る事への期待も、予定が遂行出来なかった時の落胆も、無論、予定を遂行出来た時の一次的な﹅﹅﹅﹅喜びも、すべては共に消え去るじゃろう。

キリストも「明日について心配してはなりません」などと説いたと伝わる。その言葉は、「明日について期待してはなりません」としても同じなのじゃ。そうじゃ、何時の時も期待と不安、ドキドキとワクワクは共に起こるのじゃ。人生とは、予想外の出来事ハプニングの連続ではないじゃろうか。既知に縛られる事無く、期せず案ぜず、まるで新作映画でも観るかの様に、未知を楽しむが良いのじゃ。

快楽と苦痛は本来的に<ヒトツ>であり、喜びと苦しみの分別は、条件付けられた物事からではなく、条件付けられた心の側、即ち記憶から起こる事を忘れぬ事じゃ。明日が雨か晴れか、予定が遂行されるかされないか、により苦しむのではない。狭い場所か広い場所か、犬がおるかおらぬか、褒められるか謗られるか、により苦しむのではない。物事がどうであるか? ではなく、思いがどうであるか? なのじゃ。ただ、そうである物事に抵抗するかどうか、そこに苦悩の本質が有る。すべての苦しみは、条件付けられた記憶による心の作用、それ次第であり、人は誰も皆、記憶の奴隷と成っておるのじゃ。

何時の時も、手に入れたものは失われ、喜びは束の間に去り、苦しみへと裏返る。快楽と苦痛は交互に来ては去ってゆく儚いものであり、どちらか一方を得る事は不可能なのじゃ。条件付けられた幸福は、その条件の変化と共に苦痛へと変化せざるを得ない。故に、条件付けられた幸福を求めるとは、虚しく、愚かな行為である事は明らかなのじゃ。この様な側面からも、快楽と苦痛は<ヒトツ>であると見破り、愚行への執着を手放すべきなのじゃ。

じゃがしかし、『私』は『私』を維持するために、苦痛への無抵抗、無関心を全力で拒絶する。それは、快楽への欲望と苦痛への恐怖という利己心の狭間に、『私』は生まれる故であり、欲望と恐怖という心の作用が『私』の母親と成っておる故なのじゃ。じゃが、その母親を放棄する事は、『私』を変容させる賢者の石であり、『私』を破壊する剣と言えるのじゃ。

快楽への欲望と苦痛への恐怖、この心の作用が止滅する時、『私』も共に止滅するじゃろう。

♨︎ 観照:観ておくこと

認識される対象に入り込み、快楽を求め苦痛を恐れ、絶えずお喋りしておるのは、観られる者としての『私』 ―― 自我 ―― じゃ。認識される対象から超然と離れ、だんまりを決め込み、快楽を求め苦痛を恐れる事、絶えぬお喋りが起っておる事に、ただ気付いておる﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅のが、観る者としての<私> ―― 観照者 ―― じゃ。観照者とは、純粋観照者である真我と、観られる対象である世界との遭遇点に位置しており、その点は常に、今ここに在る。「気づきがない!」などと嘆く者は、何処にもらぬ様に。

気付き無しに世界はあり得ぬのじゃ。気付きが在る、故に世界はある。即ち、おぬしが在る、故に世界はある。おぬしは広大な世界の中に独り佇むちっぽけな犠牲者などではない。世界の側がおぬしに依存しておるのであり、世界とは、おぬしという命あっての物種なのじゃ。今一度言おう。おぬしが在る故に世界はあるのじゃ。世界の内におぬしが現れるのではない。おぬしの内に世界は現れるのじゃ。この逆を信じる事とは、まったく悲惨な過ちじゃ。

そして、おぬしがすべき態度とは、気付きが在るというそのまったく明らかな事実に気付いておくこと、それだけじゃ。気付きとしての<私>を覚えておき、起こる物事に気付いておき、気付きそのものとして振る舞う事、それが観照態度なのじゃ。心がおぬしなのではない。心を観る者がおぬしなのじゃ。おぬしはただ、おぬしとして振る舞うだけで良いのじゃ。

元々おぬしは快楽と苦痛の織り成す世界から離れ、厳然として在る観照者なのじゃ。おぬしは本来のおぬしである快楽と苦痛を超える者として、期待と不安、欲望と恐怖と闘う事を止め、快楽が来ては去るそれを観ておき、苦痛が来ては去るそれを観ておき、放っておくのじゃ。往くものは追わず、来るものは拒まずという離欲無関心の態度が観照の姿勢を進展させ、逆に、観照の態度が離欲無関心の姿勢を進展させてゆくじゃろう。

良いかな、すべての快楽は偽りの幸福であり、真の幸福たり得ない。すべての快楽と苦痛への心の作用(思想)を観照し、快楽と苦痛の同一性を見破り、偽りの幸福を見破り、愚行への執着が手放されたならば、心の作用の止滅が起こり、速やかに『私』と共に無明は除去される。そして、虚りの幸福を超えた彼方に、幸福はただ在るじゃろう。偽りの幸福を見破りその執着を手放すこと、それがヨガへの道なのじゃ。

ヨガへの道を進みゆく者は、偽りを偽りと見破り、盲信に対する執着を手放すそのために、対象を対象として、油断なく﹅﹅﹅﹅見守り続けるのじゃ。


さあ、絶え間なく観ておきなさい。


錯覚


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