ヨガの八支則(P109〜114)

探究

♨ まんぐーす爺さんの教説から習う

真実の探究。それこそが、ヨガと呼ばれるものなのじゃ。「現前に広がるこの世界とは何なのか? 存在とは何なのか? 人生とは何なのか? 何故、世界は存在し、私はその中に存在し、生きているのか? 私とは何なのか?」この様に、世界、存在、人生、そして自己、それらの真実に真剣に向き合い、どこまでも疑い始めた者は、その答えを知る準備が調った証と言えるのじゃ。準備の調っておらぬ未熟者は、真実を狂気と受け取り、暗愚な盲信による苦悩を繰り返すじゃろう。準備の調った成熟者のみが、真実を正気と受け取り、暗愚な盲信を勇敢に捨て去り、"ソレ"へと至るじゃろう。

盲信を捨て去る準備の調った探究者は、差し出される燈火ともしび、真実を受け取るが良いのじゃ。

♨︎ 人生の犠牲者

人生を生きる『私』とは、突如リングに立たされ戦う事を強いられた格闘家ファイターの様でもあり、突如舞台に立たされ演じる事を強いられた役者の様でもある。そう、人生とは実に不条理な舞台とも呼べるものじゃ。じゃが、どの様な理不尽な目に遭おうとも、どうにかこうにか戦い、演じ、勝つ術、演じる術を学んでゆく様に、『私』はどうにかこうにか生き、生きてゆく術を学んでゆくものなのじゃ。

戦いに勝つ者、負ける者、勝ち負けに拘らず技術を追求する者、人気を勝ち取る者、人気を失う者、人気に拘らず演技を追求する者などと、人生は其々に異なり多種多様じゃ。その中には人生の覇者、成功者などと呼ばれる者も現れる。じゃがしかし、如何なる者に成ろうとも、如何なる技を為そうとも、如何なる物を得ようとも結局のところ…… 自分が何故この舞台に立っておるのか。舞台とは一体何なのか。即ち、人生そのものを何も知らないままである以上、『私』はこの不条理な世界の中で、欲望と恐怖に駆り立てられたままなのじゃ。

そうじゃ、人は誰も皆、"人生の犠牲者"のまま生き続けておるのじゃ。

♨︎ 成長

じゃがしかし、この不条理な世界の中においてこそ、『私』は多種多様な経験から学び、そして成長するものじゃ。そう、『私』は成長する。成長するのが『私』なのじゃ。人生とは成長するための舞台として観る時、人生において必要な事は成長する事と成るのじゃ。ところで…… 「成長」とは何じゃろう? 何を以ってその度合いを測るのじゃろうか? 一般的には、子供から大人への移行を表現する言葉として使用されておるじゃろう。

子供
依存的、他律的、軟弱的、臆病的
利己的、排他的、拒絶的、差別的
感情的、躁鬱的、短絡的、局所的

大人
自立的、自律的、強固敵、勇猛的
協調的、共存的、受容的、平等的
理性的、平穏的、思慮的、大局的


以上の様に、「成長」とは目に見える肉体的な面よりもむしろ、目に見えぬ精神的な面における状態を示す事がしばしばじゃ。例えば「もっと大人になりなさい」などの言葉は暗に「親に頼らず自立しなさい。もっと他人と協調しなさい。浮足立たず落ち着きなさい。もっと大局的に、もっと理性的に、もっと思慮深くありなさい」などと示しておると言える。目に見えぬ内面よりも外面的な言葉や姿形へ固執し影響され、己の平安を保つために、他者を傷付け、嘘を付き、奪い、他者・他物に依存するのは幼い証じゃ。

単純に言えば、子供は怠惰で落ち着かず騒がしい。大人は勤勉で落ち着き大人しいものじゃ。

♨︎ 最重要課題

人生において『私』とは常に、「何物を得よう!? 何事を為そう!? 何者に成ろう!?」 などと、喜ぶ事を求め辛い事を避けるというその本質的な衝動に従い、時に興奮的な活動性を強め意気込み努力し、時に鎮静的な停滞性を強め不貞腐れ怠惰となりながら、学び、成長してゆくのじゃ。成長してゆくにつれ、その複雑で混沌とした心性は減り、自己矛盾、努力、怠惰、葛藤、喧騒などから離れてゆく。そしてより単純で秩序だった心性を増し、均衡的な純粋性である調和、整然、勤勉、平穏、静寂などへと近づいてゆく。

成長とは心の掃除であり、雑然と沸き起こる欲望と恐怖、怠惰と落着きの無さが塵屑ごみくず ―― 稚拙さ ―― じゃ。より成長した心は、己自身を苦しめる原因への理解を深めてゆく中で、稚拙さの要因である欲望と恐怖の束縛から離れ、自由、平和、そして愛へと、静かに落ち着いてゆく。その最中さなか何時いつしか『私』は、"或る課題"と向き合わなければならぬ地点へと辿り着く。即ちそれは、己が"人生の犠牲者"という暗闇の只中にるという事実と向き合う地点じゃ。

それは「何物を持ち、何事を為し、何者に成るか!?」 などという「人生をどう生きるか?」という表面的な課題を探究する事の瑣末さを自覚し、「人生、世界、私とは何か?」という根本的な課題を探究する事の重要性を自覚する事、と言えるのじゃ。そしてこれこそが最初の課題であり、最後の課題であり、誰にとろうとも最重要課題である事は明らかなのじゃ。しかしながら、成長しておらねば暗闇にるとさえ思わぬ故、それを照らす燈火ともしびを求める事もまた、決して無いのじゃ。

人生における"最重要課題"へ挑む探究者、それこそがヨガ行者なのじゃ。

♨︎ 燈火:教師

家の中におる以上、そこで幾ら家の外観を探究しようとも、その答えを知る事は不可能じゃ。夢の中におる以上、そこで幾ら夢かどうかを探究しようとも、その答えを知る事は不可能じゃ。同じ様に、世界の中におる以上、そこで幾ら世界とは何かを探究しようとも、その答えを知る事は不可能なのじゃ。無論、「家の外観」は家の外へ出る事によって知られ、「夢かどうか」は夢の外へ出る事によって、即ち、夢から覚める事によって知られ、「世界」は世界の外へ出る事によって知られるのじゃ。

世界の外へ出る準備の調った探究者の元には、必ずやその方法を指し示すべく"標識"が現れる。古くからインドでは、探究者を真実へと導くその標識は、『guruグル』と呼ばれてきた。ここでの『gu』は暗闇を示し、『ru』は照明を示す。即ち、無知による暗闇を、知恵により照明する燈火、それがヨガ教師なのじゃ。探究者は先ず、ヨガ教師の語る言葉を、聞く事から始める。それは、本の中の一説や、テレビが発する一言かもしれぬし、目の前に座る誰かかもしれぬ。結局のところ、外に現れる教師とは、内なる教師の現れなのじゃ。

心とは、信じる事に基づきその形を成してゆく。じゃから良いかね、真実だと受け入れた教師の言葉を絶対的に信じなさい。或いは疑い、自ら確かめなさい。先はまったく非利己的な離欲献身の道、後はまったく利己的な修習探究の道じゃ。離欲献身はより迅速に、修習探究はより着実に、心を成長させてゆく。信じるにせよ調べるにせよ、努力を怠らず、その思いを日々の暮らしに溶け込ませてゆきなさい。結局のところ二つは<ヒトツ>であり、互いに補い合いながら進展してゆき、最後には一つに溶けるのじゃ。

♨︎ 教師の仕事

親の仕事とは、自身の手助けを必要とせぬ位置まで我が子を導く事じゃ。即ち「親離れをさせる事」が親の最たる務めであり、我が子が自身の元を去るまでに成長する事こそが、親の最たる願いであり喜びと成るものじゃ。じゃが、中には我が子の親離れを悲しんだり、親離れした我が子を尊重する事が出来ぬという様に、子離れ出来ぬ親もおる。解っておるね? その様な親は精神的には未熟な子供なのじゃ。しかしながら例え未熟な親であろうとも、例えば我が子が親離れする時には、依存性を断ち切り成長する機会と成る様に、子の親と成る事で自身の自立成長が促される機会が得られるのもまた、人生なのじゃ。詰まる所、どう足掻こうとも成長を促される舞台、それが人生であったりするのじゃ。

依存性が強く未熟な者は、自立成長する事の大切さを理解せぬ故に、他者へ自立成長を促すなど出来ようはずがない。快苦に依存する者は、快楽こそ求めるべきものであり、苦痛こそ避けるべきものであると盲信しそれを願う。自他の苦痛を避けようと、自他へ快楽を与えようと努力する。時には自他へ苦痛を与え、自他の快楽を奪おうとさえ努力する。そして自他の快楽に喜び、悲しみ、自他の苦痛に悲しみ、喜ぶ。一方、自立性が強く成熟した者は、自立成長する事の大切さを理解しておる故に、他者へも自立成長を促す。快苦は同等である事を理解し、そのどちらにもさして関心を向ける事無く、成長こそ求めるべきものであると理解しそれを願う。自他の苦痛を避けようとも、自他へ快楽を与えようとも努力しない。快楽と苦痛には喜びも悲しみもせず、ただその成長を喜ぶ。

ヨガ教師は、完全自立「独存」を促す。
ヨガ教師は、完全成長「成熟」を促す。

ヨガ教師の仕事とは、何の手助けをも必要とせぬ位置まで探究者を導く事じゃ。即ち「人生離れをさせる事」がヨガ教師の最たる務めであり、探究者が人生を去るまでに成熟する事こそが、ヨガ教師の最たる願いであり喜びと成るものじゃ。自身が「成熟」しその果実を落とし、「独存」を成就した至高の教師は、それこそが手助けを必要としなくなる唯一の地点であり、それこそが唯一の手助けである事を知っておる。故に、それ以外の表面的、一時的な支援にはさして関心を向けず、その根本的、恒久的な支援に惜しみない関心を向けるものじゃ。

何時如何なる時代であろうとも、至高の教師はそれを指し示す標識となり、妥協する事無く繰り返し伝える。今既に己は世界の外へ出ておる真実を。己が己、己のものと盲信する身体も心も己ではない真実を。またその心と身体があると盲信する『世界』とは、心であり、単なる『名前と形体』に過ぎず、何の根拠もない推測的世界に過ぎず、暗愚な盲信から起こる欲望と恐怖に装飾され形作られた『幻想』である真実を。そして、その様な推測的知識に覆われた『世界』への盲信、関心を放棄する離欲と、決して疑いようのない唯一の実証的知識である自己存在感覚に留まる修習により、真実が知られるという真実を。

自己 ―― 純粋 ―― として振る舞う態度こそ、心から不純粋性を取り除き、その成長を加速させ、その成熟 ―― 純粋 ―― へと導く態度なのじゃ。

♨︎ 自己探究

あらゆる欲望は、おぬし自身を知ろうとする欲望に根付いており、あらゆる恐怖は、おぬし自身を知らぬ故の恐怖に根付いておる。しからば解るじゃろう。如何なる欲望を満たそうと、その根を満たさぬ限り解決せぬ事が。如何なる恐怖を逃れようと、その根を逃れぬ限り解決せぬ事が。そしてまたあらゆる欲望と恐怖は、おぬしの、おぬし自身への愛に根付いておる。故に解決せぬ手段を探究する事は愚かな自己愛と言え、解決する手段を探究する事は賢い自己愛と言える。自身を愚かに愛する事から脱却し、自身を賢く愛する事を実践しなさい。

キリストは「何よりもまず、神の王国を探し求めなさい」などと説いたと伝わる。まさにそれだけが重要なのじゃ。それを第一に求める事じゃ。ここでの「神の王国」とは無論、真我の事じゃ。その言葉通り、何よりもまず、真我を探し求めなさい。それだけが重要なのじゃ。それが犠牲者から生存者へと生まれ変わる唯一の方法であり、自身を賢く愛する最善の方法なのじゃ。

私は誰かを学習し、私は誰かを熟考し、私は誰かを調査し、私は誰かを理解してゆく努力こそがヨガなのじゃ。自制し、自身の努力に献身しなさい。その時間と労力を、無用な事に費やすのを止め、最も有用な事に差し出しなさい。そして、決しておぬしを傷付ける事無く、おぬしの何一つ裁く事無く、おぬしのすべてを許し、おぬし自身への愛を広げてゆきなさい。今既に愛しておるおぬしを、より賢明に愛する事を学びなさい。その愛が、何処までも深く己自身へと入ってゆく必要不可欠な導き手と成るじゃろう。

名前と形体による限定された『私』が見抜かれるまで、そして名前と形体を超えた無限の【私】に辿り着くまで、「私は誰か?」以外の問いを放棄しなさい。「私は誰か」を探究しなさい。自己に留まり、自己の源へと、深く、深く、入ってゆきなさい。


さあ、私を探しにゆきなさい。


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