ヨガの太陽礼拝(P69,70)

言葉

♨ まんぐーす爺さんの教説から習う

古来日本においても、言葉には霊力が宿っており、声に出した言葉は言霊ことだまと成り世界に響き渡り、その言葉通りの事象を招くなどと信じられてきた様に、使う言葉に従って世界は形作られてゆくのじゃ。その単純な理由とは、人が経験する現実とは言葉に装飾された世界だという事じゃ。「太陽」と名付き色付いた記憶観念が思想された刹那﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅、その投影として「太陽」が時空せかいに現れて見えるのであり、その逆ではない。各人の現在における思考ことばが時間、想像イメージが空間である故に、思想せかいとは必ず一時的で主観的じゃ。即ち言葉とは、実質的に境界無く無形である<ひとつ>を、便宜的に判断し、一時ひととき個人的世界はかないゆめを形作っておる道具なのじゃ。

ヨガへの道を進みゆく者は、言葉は人生を飾付ける絵具であり、言葉は人生を方向付ける指標であると自覚し、扱う言葉に注意を払うが良いのじゃ。

♨︎ 愚鈍と賢明

「味噌もくそも一緒」ということわざが有る。それは「外見に惑わされず、物事を適切に判断できる人になりなさい」という教訓じゃろう。詰まりは分別無い愚鈍こどもから、分別有る賢明おとなへの成長を促す言葉であり、分別の大事を説いておる。その通り物事とは、相対的な部分的価値においては別が有る。しかし物事とは、絶対的な全体的価値においては僅かの別も無いのじゃ。じゃから良いかね、如何なる物事にも善悪、優劣を判断せぬ者に成りなさい。差別偏見は愚鈍さ、一過性にせものの現れであり、平等公正は賢明さ、不変性ほんものの現れに他ならぬのじゃ。

さて、「味噌」と「糞」の本質的な違いとは何じゃろう? 名の別じゃろうか? 色の別じゃろうか? 匂いの別じゃろうか? 使用法の別じゃろうか? そうじゃ、これらはすべて表面的、相対的な違いであり、このように言葉によって物事を判断しようとする限り、人はソレの上っ面を知る事しか出来ぬのじゃ。

♨︎ 幻影と真実

物事の本質とは「名前ことば色形イメージ」によらぬ【ソレ】じゃ。味噌の本質は【ソレ】であり、くその本質もまた【ソレ】なのじゃ。故に賢者は断言する。「私もあなたも一緒」であると。【私】は【あなた】であり、【あなた】は【私】であると。そして言明する。【あなた】は、言葉ではない。形象ではない。【あなた】は、水面に現れては消える泡や波のような心ではなく、水のように現象の背後に遍く満ちた【意識】なのだと。ただ、「あなた」が「意識あなたではないもの」を「あなた」だとする妄信が、真実なる【真我あなた】を覆い隠す障害なのだと。

「私は身体である」を皮切りに個人的世界は現れる。その言葉を確信するならば真実は隠れ、幻想ゆめは明確と成る。物体が濁る程にその影が色濃く映る様に。逆にその言葉ゆめ幻想ゆめとして観照し、真実を示す言葉に耳を傾け、繰り返し思念するならば真実が現れ、幻想ゆめは曖昧と成る。物体が透く程にその影が色淡く映る様に。人は誰も皆、信じ込んでおる言葉に運ばれゆく定めなのじゃ。


さあ、真実を示す言葉を繰り返しなさい。


言葉


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