煩悩
1-05
心の作用には5つの種類がある。それらには煩悩性と非煩悩性のものとがある。
2-03
煩悩には、無明、我想、貪愛、憎悪、生命欲などがある。
2-04
以上の5煩悩の中で、無明はその他の諸煩悩の田地である。他の諸煩悩は各個にあるは眠り、あるは弱まり、あるは中絶し、あるは栄えたりするが、無明は常にそれらの田地として存在する。
2-05
無明とは、非常、非浄、非楽、非我であるものに関して、常、浄、楽、我であると考える見解をいう。
2-06
我想とは、観る主体である力と、観る作用である力とを一体であるかの如くに思い込むことである。
2-07
貪愛とは、快楽に囚われた心情である。
2-08
憎悪とは、苦痛に囚われた心情である。
2-09
生命力は、その固有な味わいを不断に持ち続けており、賢明な人たちにもこの煩悩のあることは一般的に知られている。
2-10
これら5つの煩悩は、それらが潜在、未発の微妙な形態で存在する時には、心の逆転変によって初めて除去することができる。
2-13
煩悩という根因があるかぎり、業遺存の異熟果である境涯と寿命と経験が発現する。
『ヨガ・スートラ』
煩悩:クレーシャ
明知を覆い隠す障害とされ、その漢訳通り苦悩の要因を示している。煩悩性とは、永続的な苦悩の経験、即ち輪廻(転生)への束縛を促す心の作用であり、非煩悩性とは、輪廻からの解放、即ち解脱を促す心の作用である。
初めに『無明』と呼ばれる煩悩が起こり、更に『我想」から『貪愛・憎悪』と呼ばれる煩悩が起こる。
煩悩性から非煩悩性への転換が心の逆転変と呼ばれる。ヨガとは、この心の逆転変を狙っている行法である。
非常在、非清浄、非幸福、非自己
真我でないもののことである。真我は純粋観照者であり、真我ではないものとは真我以外の全てであり、観照される対象である。観照される対象とは、心の作用により想起する観念であり、名前と形体に装飾された思想や想念と呼ばれる思いと想いのことであり、刹那に生起と生滅を繰り返すものである。故に全ての対象は、常に存在しておらず、こびり付いては剥がれ落ちる多種多様な汚れのようなものであり、故に幸福の要因とは成り得ず、自己存在たり得ないものである。
真我は、常在、清浄、幸福、自己である。真我は純粋な存在意識であり永遠の至福である。
煩悩の種類
①:無明(無知)
常在でないものを常在であると確信し、清浄でないものを清浄であると確信し、幸福でないものを幸福であると確信し、自己でないものを自己であると確信する心の作用のことである。
それはまた、自己を知らないことであり、『私』などという自我が存在すると確信していることである。
②:我想(がそう)
自己による観照(意識、気づき)と、心による認識作用とを同一であると確信する心の作用のことであり、自己である観照者と心である認識者(自我)、自己である観照者と心である認識対象とが同一視される事である。
例えばそれは、「私は身体である」「私は心である」「私が楽しんでいる」「私が苦しんでいる」「私が考えている」「私が話している」「私が動いている」などと確信していることである。
我想は、『私』などという自我が存在すると確信している心の作用である無明から起こる。
③:貪愛(欲望)
条件づけられた記憶により、快楽を欲し求めようとする心の作用のことである。
貪愛は、「私が楽しんでいる」などと確信している心の作用である我想から起こる。
④:憎悪(恐怖)
条件づけられた記憶により、苦痛を怖れ避けようとする心の作用のことである。また、その対象を憎み、取り除こうとする心の作用のことである。
憎悪は、「私が苦しんでいる」などと確信している心の作用である我想から起こる。
煩悩の衰退、中絶、繁栄
ある状況下において煩悩は作用せず、ある状況下において煩悩は作用する。
例えばそれは、関心が向かず欲しいと思わなかった物事が、お金を手にした途端、見聞きした途端、新しい身体に転生した途端、目の前に現れた途端、手に入る可能性があると判断した途端、などと、状況次第でその物事に関心が向き、欲望が起こることである。
例えばそれは、関心が向かず怖いと思わなかった物事が、職を失った途端、目的を見失った途端、知人を亡くした途端、孤独になった途端、目の前に現れた途端、避けることは不可能であると判断した途端、などと、状況次第でその物事に関心が向き、恐怖が起こることである。
無明という煩悩の根本原因が絶たれ、我想の作用が消えない限り、欲望と恐怖に対するその諦めは、一時的な妥協に過ぎず、永続的な真の諦観ではない。
無垢な自己を汚し、幸福を覆い隠している心の作用が煩悩であると言えるでしょう。