【禁戒②】非虚言
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非虚言の戒律に徹するならば、その人は行為とその結果との拠り所となることができる。
『ヨガ・スートラ』
② 非虚言:サティヤ
他者へ嘘をついてはならない、という禁止戒律である。原語である『satya』は、「正直、真実、本質」などを示し、一般的には「正直、誠実、真実語」などとも訳されている。
因みに、仏典では五戒の4番目、聖書では十戒の後半4番目を「不妄語戒」としている。
隠蔽と露呈
非虚言の戒律に徹するには、これに背こうとする思想が起ってはならない。これらの戒律に背こうとする思想は、例えば「隠蔽したい」などの欲望(貪愛)と、「露呈したくない」などの恐怖(憎悪)を動機として起こる。即ち、隠蔽と露呈への関心、執着から起こる。そして隠蔽と露呈への関心は、『自と他』を示す相対的観念である無明を根因とし、『隠蔽と露呈』を示す相対的観念との自己同一化である我想を原因として起こる。
※ ここでは虚言のより直接的な要因となる隠蔽と露呈を例として示している。
非虚言の戒行の意図は、まず単純に、道徳心、自制心、意志力、忍耐力などを培うことである。
そして他者に嘘を付こうとする心の作用を起こす動機となる、隠蔽と露呈を含め様々な相対的観念による快楽と苦痛への関心を止滅し、心の散動状態を維持する習慣を排除することである。
対抗思想:原因と結果の理解
非虚言に背こうとする思想に対抗する思想とは、隠蔽と露呈への無関心を起こす思想である。
まず単純に、他者に嘘を付いてはならない。しかし、他者へ嘘を付くかどうかが非虚言の本質ではない。その本質は無明、我想、そして他者へ嘘を付こうとする動機である欲望と恐怖があるかどうかである。故に欲望と恐怖(隠蔽と露呈などへの関心)を止滅するために、苦悩の起こる原因と結果の関係性を明確に理解し、錯覚を錯覚として明確に理解することである。
まず、虚言は、無明を根因とし、我想を原因として起こることを、明確に理解することである。次に、隠蔽や露呈などへの関心こそが、欲望と恐怖への束縛を反復させ、虚言を永続させる要因なのであり、隠蔽や露呈などへの無関心こそが、欲望と恐怖からの解放であり、虚言を終焉させる方法であることを、明確に理解することである。直接的には、他者へ嘘を付こうとする要因となる無自覚的な相対的観念を具体的に洞察し、明確に自覚することである。
それは、隠蔽と露呈に関心を持つことが、苦悩と無知を際限なく繰り返すだけであることを、明確に理解することによる確信である。
沈黙
隠蔽と露呈に無関心と成り、『自・他』という名前と形体の区別を越え、相対的な観念世界から自由になり、絶対的な平等性を実現し、非傷虚言を達成した者に備わる心の在り様を示す名前が『沈黙』である。それは、真の自己へと至った者のみに備わる自然な在り方である。
相互の相対的依存関係の上に成り立つ名前と形体による観念世界において、あらゆるものは隠れることと露わになることの中にある。この関係性を超えて非虚言を徹底しようとすることは、自己が関係性の世界にいると錯覚している限り、不可能であり、自己欺瞞であり、自己矛盾に苦しむだけである。
この関係性を超えて非虚言を徹底するには、自己が関係性の世界にはいないという事実を自覚しなければならない。
『隠蔽・露呈』という名前と形体による区別を超え、欲望と恐怖から自由になるそのとき初めて、非虚言は完全なものとなる。
非虚言
岩石の様に、何一つとして語らず、無口でありなさいという話ではない
沈黙であるとは、隠蔽性、露呈性から離れた心の在り様を示している
『隠蔽・露呈』という名前と色形による区別を越えて平等である事である
沈黙である時、愛が、愛のみを絶え間なく語る
己の元へと来る、隠蔽と露呈の区別を越えて、沈黙でありなさい
己の元から去る、隠蔽と露呈の区別を越えて、沈黙でありなさい
今、そうである、あるがままの状況を越えて、沈黙でありなさい
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個人的『私』は常に、隠蔽する事など、楽しむ事を求めている
個人的『私』は常に、露呈する事など、苦しむ事を恐れている
それが個人的『私』の本性である
個人的『私』が楽しむ欲望から、他者へ嘘を付こうとする心の反応は起こる
個人的『私」が苦しむ恐怖から、他者へ嘘を付こうとする心の反応は起こる
即ち、すべての虚言は、個人的『私』の欲望と恐怖から起こる
欲望と恐怖に支配された自己愛こそが、虚言の原因である
臆病な己を守ろうとする自己愛こそが、虚言の動機である
故に、守るべき『私』がいる限り、虚言に終わりは無い
無論、自己を愛する事は、まったく当然の事である
故に、自己を愛する事が、誤った事なのではない。
ただ、限定された個人的自己のみを愛する事が、誤り-苦痛-である
欲望と恐怖に支配された限定的な自己愛こそが、誤り-虚言-である
名前と色形により、限定的『私』を定義する事こそが、虚言の根因である
『自分・他者』という名前と色形による区別こそが、誤り-虚言-である
故に、『私』の定義付を止める事によってのみ、偏愛-虚言-は終焉する
平等である時、全体的【私】としての自己愛がある
定義付による、自分と他者の限定を超えて、平等でありなさい
定義付による、自分と他者の区別を超えて、平等でありなさい
定義付による、自分と他者の偏愛を超えて、平等でありなさい
満たされた隠蔽欲は、隠蔽へのより多くの欲望を生む事と成る
より多くの隠蔽欲は、陥落へのより多くの恐怖を生む事と成る
隠蔽を欲し求めようとする努力に、果ては無い事を見破りなさい
露呈を恐れ避けようとする努力に、果ては無い事を見破りなさい
隠蔽と露呈は、コインの表裏の様に、分ける事の出来ない関係にある
隠蔽されるものは、必ず、露呈されるものである
隠蔽を求め露呈を避ける努力は、不毛であると自覚しなさい
その明らかな不毛さを自覚し、それらの努力を手放しなさい
この在り方によってのみ、幸福の扉が開く事を、覚えておきなさい
虚言によっては、何も解決しない事を、良くよく覚えておきなさい
真の解決-幸福-とは、欲望と恐怖の支配下から自由に成る事である
欲望と恐怖に支配された心を、制御しようと闘う必要は無い
欲望と恐怖の対象は、単なる『名前と色形』であると自覚しなさい
それらは単なる『空想』であると観て、無視しなさい
隠蔽と露呈に無関心と成り、欲望と恐怖の支配下から自由でありなさい
非虚言の戒行とは、欲望と恐怖という自身を苦しめている原因への対処法であり、隠蔽を欲し求めることと露呈を怖れ避けることに対する離欲無関心へと導くための手引と言えるでしょう。