【禁戒⑤】非所有
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非所有の戒律において不動心を得たならば、自分の転生のありさまを三世にわたって漏れなく知ることができる。
『ヨガ・スートラ』
⑤ 非所有:アパリグラハ
自分の物を持ってはならない、という禁止戒律である。原語である『aparigraha』は、「非、不、無」などを示す『a』と、「所有、資産、家族」などを示す『parigraha』とからなり、一般的には「不所有、不所持、不貪欲」などとも訳されている。それは物に限らず、あらゆる「自分の--」などという思想を排除することである。
因みに、仏典では五戒の5番目を「不飲酒戒」とし、聖書では十戒の後半5番目を「不貪欲戒(他人の所有物を欲してはならない)」としている。
飲酒は、何かを所有することや、人、煙草、薬、テレビ、お菓子などと接触するのと同様、安易に快楽を手にし、苦痛を忘れるための代表的な依存対象といえる。
獲得と喪失
非傷所有の戒律に徹するには、これに背こうとする思想が起ってはならない。これらの戒律に背こうとする思想は、例えば「獲得したい」などの欲望(貪愛)と、「喪失したくない」などの恐怖(憎悪)を動機として起こる。即ち、獲得と喪失への関心、執着から起こる。そして獲得と喪失への関心は、『自と他』を示す相対的観念である無明を根因とし、『獲得と喪失』を示す相対的観念との自己同一化である我想を原因として起こる。
※ ここでは所有のより直接的な要因となる獲得と喪失を例として示している。
非所有の戒行の意図は、まず単純に、道徳心、自制心、意志力、忍耐力などを培うことである。
そして自分の物を持とうとする心の作用を起こす動機となる、獲得と喪失を含め様々な相対的観念による快楽と苦痛への関心を止滅し、心の散動状態を維持する習慣を排除することである。
対抗思想:原因と結果の理解
非所有に背こうとする思想に対抗する思想とは、獲得と喪失への無関心を起こす思想である。
まず単純に、自分の物を持ってはならない。しかし、自分の物を持つかどうかが非所有の本質ではない。その本質は無明、我想、そして自分の物を持とうとする動機である欲望と恐怖があるかどうかである。故に欲望と恐怖(獲得と喪失などへの関心)を止滅するために、苦悩の起こる原因と結果の関係性を明確に理解し、錯覚を錯覚として明確に理解することである。
まず、所有は、無明を根因とし、我想を原因として起こることを、明確に理解することである。次に、獲得や喪失などへの関心こそが、欲望と恐怖への束縛を反復させ、所有を永続させる要因なのであり、獲得や喪失などへの無関心こそが、欲望と恐怖からの解放であり、所有を終焉させる方法であることを、明確に理解することである。直接的には、自分の物を持とうとする要因となる無自覚的な相対的観念を具体的に洞察し、明確に自覚することである。
それは、獲得と喪失に関心を持つことが、苦悩と無知を際限なく繰り返すだけであることを、明確に理解することによる確信である。
無一物
獲得と喪失に無関心と成り、『自・他』という名前と形体の区別を越え、相対的な観念世界から自由になり、絶対的な平等性を実現し、非所有を達成した者に備わる心の在り様を示す名前が『無一物』である。それは、真の自己へと至った者のみに備わる自然な在り方である。
相互の相対的依存関係の上に成り立つ名前と形体による観念世界において、あらゆるものは得ることと失うことの中にある。この関係性を超えて非所有を徹底しようとすることは、自己が関係性の世界にいると錯覚している限り、不可能であり、自己欺瞞であり、自己矛盾に苦しむだけである。
この関係性を超えて非所有を徹底するには、自己が関係性の世界にはいないという事実を自覚しなければならない。
『獲得・喪失』という名前と形体による区別を超え、欲望と恐怖から自由になるそのとき初めて、非所有は完全なものとなる。
非所有
乞食の様に、何一つとして持たず、貧困でありなさいという話ではない
無一物であるとは、獲得性、喪失性から離れた心の在り様を示している
『獲得・喪失』という名前と色形による区別を越えて平等である事である
無一物である時、愛が、愛のみを絶え間なく得る
己の元へと来る、獲得と喪失の区別を越えて、無一物でありなさい
己の元から去る、獲得と喪失の区別を越えて、無一物でありなさい
今、そうである、あるがままの状況を越えて、無一物でありなさい
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個人的『私』は常に、獲得する事など、楽しむ事を求めている
個人的『私』は常に、喪失する事など、苦しむ事を恐れている
それが個人的『私』の本性である
個人的『私』が楽しむ欲望から、自分の物を持とうとする心の反応は起こる
個人的『私」が苦しむ恐怖から、自分の物を持とうとする心の反応は起こる
即ち、すべての所有は、個人的『私』の欲望と恐怖から起こる
欲望と恐怖に支配された自己愛こそが、所有の原因である
臆病な己を守ろうとする自己愛こそが、所有の動機である
故に、守るべき『私』がいる限り、所有に終わりは無い
無論、自己を愛する事は、まったく当然の事である
故に、自己を愛する事が、誤った事なのではない。
ただ、限定された個人的自己のみを愛する事が、誤り-苦痛-である
欲望と恐怖に支配された限定的な自己愛こそが、誤り-所有-である
名前と色形により、限定的『私』を定義する事こそが、所有の根因である
『自分・他者』という名前と色形による区別こそが、誤り-所有-である
故に、『私』の定義付を止める事によってのみ、偏愛-所有-は終焉する
平等である時、全体的【私】としての自己愛がある
定義付による、自分と他者の限定を超えて、平等でありなさい
定義付による、自分と他者の区別を超えて、平等でありなさい
定義付による、自分と他者の偏愛を超えて、平等でありなさい
満たされた獲得欲は、獲得へのより多くの欲望を生む事と成る
より多くの獲得欲は、喪失へのより多くの恐怖を生む事と成る
獲得を欲し求めようとする努力に、果ては無い事を見破りなさい
喪失を恐れ避けようとする努力に、果ては無い事を見破りなさい
獲得と喪失は、コインの表裏の様に、分ける事の出来ない関係にある
獲得されるものは、必ず、喪失されるものである
獲得を求め喪失を避ける努力は、不毛であると自覚しなさい
その明らかな不毛さを自覚し、それらの努力を手放しなさい
この在り方によってのみ、幸福の扉が開く事を、覚えておきなさい
所有によっては、何も解決しない事を、良くよく覚えておきなさい
真の解決-幸福-とは、欲望と恐怖の支配下から自由に成る事である
欲望と恐怖に支配された心を、制御しようと闘う必要は無い
欲望と恐怖の対象は、単なる『名前と色形』であると自覚しなさい
それらは単なる『空想』であると観て、無視しなさい
獲得と喪失に無関心と成り、欲望と恐怖の支配下から自由でありなさい
非所有の戒行とは、欲望と恐怖という自身を苦しめている原因への対処法であり、獲得を欲し求めることと喪失を怖れ避けることに対する離欲無関心へと導くための手引と言えるでしょう。