【補足】梵天準拠

ヨガを一から習う

2-38

梵天準拠の戒行に徹するならば、巨大な力が得られる。

『ヨガ・スートラ』

梵天準拠:ブラフマ・チャーリヤ

梵天に準じた行いをしなさい、という勧奨戒律である。

【禁戒④】の原語である『ブラフマ・チャーリヤ』は、仏教などでは「梵行(ぼんぎょう)」と訳されている戒律です。この梵行者の生活態度から派生したのか「禁欲生活、節制生活、独身生活」などとも訳されています。

梵天準拠の戒行の意図は、まず単純に、道徳心、自制心、意志力、忍耐力などを培うことである。


そして、自他を分けようとする心の作用を起こす動機となる、様々な相対的観念による快楽と苦痛への関心を止滅し、定義付られた「私は何々である」などと思想する習慣を排除することである。

梵天

梵天とは、全てに偏在し、且つ全てを超越する唯一の実在であり、純粋意識であり、即ちそれは真我である。それは『梵我一如』などと表される。

自己愛

私を愛することが私の本性である。快楽と苦痛への関心による利己心、我欲、わがまま、自分勝手、自己中心などの言葉に始まり、軽率、放逸、貪欲、臆病、動揺、焦燥、頑固、固執、猛然、さらに愚鈍、鈍重、怠惰、憂鬱、妄想、闇雲、断絶などの言葉が表す心の作用も、快楽と苦痛への無関心による利他心、慈悲、献身、配慮、滅私奉公などの言葉に始まり、自己探究、浄化、自制、満足、注意、勇敢、冷静、平穏、柔和、適切、整然、さらに賢明、軽快、勤勉、明朗、観察、明確、持続などの言葉が表す心の作用も、その全てが自己愛に起因するものである。

しかし前者はより愚かな自己愛であり、後者はより賢い自己愛である。名前と形体により定義づけされたとき、限定された『私』へと愛は向くことになる。故に、その名前と形体による定義づけを除いたならば、全体としての私へと愛は向くことになる。全体性としての自己への慈愛、自己との調和に基づく行為により、分離を思想することを止めることである。

分離を思想しなくなるとき、貪愛と憎悪(欲望と恐怖)と共に、我想、無明(個人性)も滅ぼされる。

愛の段階

八支則は、より愚かな自己愛から、より賢い自己愛へと段階的に速やかに移行していくように構成されている。それは各段階において、純粋質の流れを阻止している停滞質と激動質が減退していくことであり、それはつまり、利己心が減退する程に、利他心は増進するということである。

戒律行を守り、瞑想行を行うことは、自己をより賢く愛することである。

自と他に無関心となり、『自・他』という名前と形体の区別を超え、相対的な観念世界から自由になり、絶対的な平等性を実現し、非分別を達成した者に備わる心の在り様を示す名前が『愛』である。それは、真の自己へと至った者のみに備わる自然な在り方である。

相互の相対的依存関係の上に成り立つ名前と形体による観念世界において、あらゆるものは自他分離の中にある。この関係性を超えて全てを愛そうとすることは、自己が関係性の世界にいると錯覚している限り、全てが【私】であると自覚されない限り、不可能であり、自己欺瞞であり、自己矛盾に苦しむだけである。

この関係性を超えて全てを愛するには、自己が関係性の世界にはいないという事実を自覚し、唯一【私】だけが存在しているという事実を自覚しなければならない。


全ての名前と形体による区別を超え、全ての定義づけられた分別が消滅するとき初めて、全てを愛することは自然なものとなる。



梵天準拠


私は、すべてを愛している

私は、すべてへの慈愛を元に行為する
私は、すべてとの調和の内に行為する

私は【 無敵 】として、私と遭遇するものを、傷付ける必要は無い
私は【 沈黙 】として、私と遭遇するものに、嘘を付く必要は無い
私は【 無為 】として、私と遭遇するものの、物を盗む必要は無い
私は【 独立 】として、私と遭遇するものと、付き合う必要は無い
私は【無一物】として、私と遭遇するものを、手にする必要は無い

私はすべてであり、すべては愛であり、私は愛である

私は【 一如 】として、私と遭遇するものを、別け離す必要は無い
私は【 平等 】として、私と遭遇するものを、偏愛する必要は無い
私は【 愛 】として、私と遭遇するものを、受容し理解し愛する

私は、すべての彼方に在る気付きである

私は【 清浄 】として、私と遭遇するものと、完全に厭離している
私は【 幸福 】として、私と遭遇するものを、完全に必要としない
私は【観照者】として、私と遭遇するものを、完全に観照している

私は、すべてに偏在する者として振る舞う
私は、すべてを超越する者として振る舞う



梵天準拠の戒行とは、「偏在」し「超越」している梵天(真我)そのものとして振る舞う態度であり、全てのすべては自分自身であるとして振る舞い、なおかつ全てのすべてを超えて在るのが自分自身(気付き)であるとして振る舞う態度と言えるでしょう。


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