八支則1.禁戒

ヨガを一から習う

2-30

禁戒には、非暴力、非虚言、非偸盗、非交際、非所有の5つがある。

2-33

もしも、戒に背こうとする妄想が起って、戒の実行の妨害となるようならば、その妄想に対抗する思念をなすがよい。

2-34

殺生等の妄想には、すでに為したもの、為さしめられたもの、甘んじて承認したものなどの別が在り、また貪愛、憎悪、愚鈍の各々を動機とする別があり、さらに、温和なもの、中位のもの、過激なものなどの別があるが、全て、苦と無知とを際限なくもたらすものである、というのが、妄想に対する想念なのである。

『ヨガ・スートラ』

1.禁戒:ヤマ

禁止している態度を示す戒律である。原語である『yama』は、「戒律、規定、掟」などを示し、その語源は「抑制する、制御する、拘束する」などを示す『yam』である。それは次の5つである。

禁戒
  1. 非暴力 …… 他者を傷付けてはならない
  2. 非虚言 …… 他者に嘘を付いてはならない
  3. 非偸盗 …… 他者の物を盗んではならない
  4. 非交際 …… 他者と付き合ってはらなない
  5. 非所有 …… 自分の者を持ってはならない

これらは、自制禁欲から始まりはするものの、離欲(快苦の節制からの無関心)を提示している。

快楽と苦痛

これらの戒律に徹するには、これに背こうとする思想が起ってはならない。これらの戒律に背こうとする思想は、「楽しみたい」などの欲望(貪愛)と、「苦しみたくない」などの恐怖(憎悪)を動機として起こる。即ち、快楽と苦痛への関心、執着から起こる。そして快楽と苦痛への関心は、『自と他』を示す相対的観念である無明を根因とし、『快楽と苦痛』を示す相対的観念との自己同一化である我想を原因として起こる。
※ ここでは関心の根本的な要因となる快楽と苦痛を例として示している。

禁戒の意図は、まず単純に、道徳心、自制心、意志力、忍耐力などを培うことである。


そして快楽と苦痛に関わろうとする心の作用を起こす動機となる、様々な相対的観念による快楽と苦痛への関心を止滅し、心の散動状態を維持する習慣を排除することである。

対抗思想:原因と結果の理解

禁戒に背こうとする思想に対抗する思想とは、快楽と苦痛への無関心を起こす思想である。

まず単純に、快楽と苦痛に関わってはならない。しかし、快楽と苦痛に関わるかどうかが禁戒の本質ではない。その本質は無明、我想、そして快楽と苦痛に関わろうとする動機である欲望と恐怖があるかどうかである。故に欲望と恐怖(快楽と苦痛への関心)を止滅するために、苦悩の起こる原因と結果の関係性を明確に理解し、錯覚を錯覚として明確に理解することである。

まず、快楽と苦痛への関心は、無明を根因とし、我想を原因として起こることを、明確に理解することである。次に、快楽と苦痛への関心こそが、欲望と恐怖への束縛を反復させ、苦悩の経験を永続させる要因なのであり、快楽と苦痛への無関心こそが、欲望と恐怖からの解放であり、苦悩の経験を終焉させる方法であることを、明確に理解することである。直接的には、快楽と苦痛に関わろうとする要因となる無自覚﹅﹅﹅的な相対的観念を具体的に洞察し、明確に自覚﹅﹅することである。

それは、快楽と苦痛に関心を持つことが、苦悩と無知を際限なく繰り返すだけであることを、明確に理解することによる確信である。

無関心

快楽と苦痛に無関心と成り、『自・他』という名前と形体の区別を越え、相対的な観念世界から自由になり、絶対的な平等性を実現し、禁戒(離欲)を達成した者に備わる心の在り様を示す名前が『無関心』である。それは、真の自己へと至った者のみに備わる自然な在り方である。

相互の相対的依存関係の上に成り立つ名前と形体による観念世界において、あらゆるものは楽しむことと苦しむことの中にある。この関係性を超えて禁戒(離欲)を徹底しようとすることは、自己が関係性の世界にいると錯覚している限り、不可能であり、自己欺瞞であり、自己矛盾に苦しむだけである。

この関係性を超えて離欲を徹底するには、自己が関係性の世界にはいないという事実を自覚しなければならない。


『快楽・苦痛』という名前と形体による区別を超え、欲望と恐怖から自由になるそのとき初めて、離欲は完全なものとなる。



禁戒


無関心でありなさい

鬼畜の様に、何一つとして構わず、冷徹でありなさいという話ではない
無関心であるとは、欲望と恐怖から離れた心の在り様を示している
『快楽・苦痛』という名前と色形による区別を越えて、平等である事である

無関心である時、愛が、愛のみと絶え間なく関わる

己の元へと来る、快楽と苦痛の区別を越えて、無関心でありなさい
己の元から去る、快楽と苦痛の区別を越えて、無関心でありなさい
今、そうである、あるがままの状況を越えて、無関心でありなさい


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原因と結果を理解しなさい

個人的『私』は常に、得する事、優位である事など、楽しむ事を求めている
個人的『私』は常に、損する事、劣位である事など、苦しむ事を恐れている

それが個人的『私』の本性である

個人的『私』が楽しむ欲望から、快苦に関わろうとする心の反応は起こる
個人的『私」が苦しむ恐怖から、快苦に関わろうとする心の反応は起こる

即ち、すべての関心は、個人的『私』の欲望と恐怖から起こる



限定された自己が誤りである

欲望と恐怖に支配された自己愛こそが、関心の原因である
臆病な己を守ろうとする自己愛こそが、関心の動機である

故に、守るべき『私』がいる限り、関心に終わりは無い

無論、自己を愛する事は、まったく当然の事である
故に、自己を愛する事が、誤った事なのではない。

ただ、限定された個人的自己のみを愛する事が、誤り-苦痛-である
欲望と恐怖に支配された限定的な自己愛こそが、誤り-関心-である



平等でありなさい

名前と色形により、限定的『私』を定義する事こそが、関心の根因である
『自分・他者』という名前と色形による区別こそが、誤り-関心-である
故に、『私』の定義付を止める事によってのみ、偏愛-関心-は終焉する

平等である時、全体的【私】としての自己愛がある

定義付による、自分と他者の限定を超えて、平等でありなさい
定義付による、自分と他者の区別を超えて、平等でありなさい
定義付による、自分と他者の偏愛を超えて、平等でありなさい



努力を手放しなさい

満たされた快楽は、快楽へのより多くの欲望を生む事と成る
より多くの欲望は、苦痛へのより多くの恐怖を生む事と成る

快楽を欲し求めようとする努力に、果ては無い事を見破りなさい
苦痛を恐れ避けようとする努力に、果ては無い事を見破りなさい

快楽と苦痛は、コインの表裏の様に、分ける事の出来ない関係にある
快楽を生むものは、必ず、苦痛を生むものである

快楽を求め苦痛を避ける努力は、不毛であると自覚しなさい
その明らかな不毛さを自覚し、それらの努力を手放しなさい



自由でありなさい

この在り方によってのみ、幸福の扉が開く事を、覚えておきなさい
関心によっては、何も解決しない事を、良くよく覚えておきなさい

真の解決-幸福-とは、欲望と恐怖の支配下から自由に成る事である

欲望と恐怖に支配された心を、制御しようと闘う必要は無い
欲望と恐怖の対象は、単なる『名前と色形』であると自覚しなさい
それらは単なる『空想』であると観て、無視しなさい

快楽と苦痛に無関心と成り、欲望と恐怖の支配下から自由でありなさい



そして、元々ある幸福へ戻りなさい



禁戒とは、欲望と恐怖という自身を苦しめている原因への対処法であり、快楽を欲し求めることと苦痛を怖れ避けることに対する離欲無関心へと導くための手引と言えるでしょう。


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