2020-01-08

2013-12-07

無駄

気ままの雑記から習う
落ち葉

すっかりイチョウの葉も舞い散り……今年もいよいよ最後の月となりました。前回のコラムは身体が開花する時季でしたが、今やすっかり閉じている時季……。ここのところはブログの方にて書き綴って参りましたが、久しぶりにホームページのコラムを書かせていただきます。

現在、コラムとしてではなく、ブログとコラムを雑記カテゴリーにまとめています。

2020/01/08

さてそんな超久々の更新である今回は、”無駄”についてのお話をしたいと思います。

止めること

「止めること」。このホームページの「はじめに」に書いてあるように、これは最も大切なことの一つであると考えています。さて、何を止めるのかといえば……それは「無駄」です。無駄とは、ある働きを邪魔し、無効にする余計な働き、不要な働きのことです。幸せ・健康を邪魔する無駄な解し方、考え方、言い方、行い方を「止める」ことで、幸せ・健康の側からコッチ側にやってきてくれるようなものなのです。修行のキーワードは「止める」です。

現在「はじめに」ページはございません。

2020/01/08

ブレーキ

無駄とは、全体が向かおうとしているのにブレーキをかけている部分のことです。無駄を止めるとは、別離した部分の働きを、全体の働きに統一することであり、それはブレーキを離させて、アクセルを踏むのを加勢させるようなものです。無駄がないとは、矛盾が無く全体が協力していることです。食べないようにしようとしても食べ過ぎてしまったり、早起きしようとしても寝過ごしてしまったり……それらのは意志の働きと反対に、力強く食べる働き、寝る働き(習慣的行為、生理的な働きなど)が同時に働いているということです。

無駄とは、アクセルとブレーキを同時に踏んでいるようなもので、とても不合理です。力ずく・無理矢理ですから、自動車でもヒトでも、すぐにでも故障することが目に見えます。たとえていえばそれは、手を挙げるときにそれを邪魔する筋肉も同時に使っていることです。それはまた、胃腸が消化活動を休みたい(お腹が空いていない、お腹がいっぱい)ときに、それを邪魔するように食べることです。やがては故障(不健康)に至ると考えられます。つまり、「無駄がある → 無理がかかる → 故障する」という流れです。無駄な抵抗を減らし、無理(不自然)を減らしていくことが幸せ・健康を迎え入れることになるのです。

問いかけるべきは?

自分が幸せ・健康になるには、「私はいったい何を得るべきだろうか? いったい何をするべきだろうか?」ではないのです。何かを「手に入れる」とか、何かを「する」とかでは、幸せにも健康にもなることはできません。「無駄がある → 無理がかかる → 故障(不幸・不健康)」であり、「無駄を止める → 合理的 → 幸せ・健康」の流れです。よって問うべきは、何を「しない」か? こっちです。「私はいったい何を止めるべきであろうか?」なのです。つまりそれは、

「私はいったいどんな無駄をしているのだろうか?」

無駄を知る

無駄を「止める」ためには、それが無駄であることを理解していることが必要です。何が無駄かを知らないと、打つ手がないということです。ヨガでは大きく5つの無駄な行為を提示してくれています。

表1.ヨガスートラの説く禁戒

禁戒無駄な行為止める正しい状態
非暴力暴力を振るう穏やか
不嘘嘘をつく正直
不盗盗む
不淫浮気をする誠実
不貪貪る知足

これら不幸を招く無駄な思考君の働きはすべて、記憶情報による主観(価値観=ルール)を通して物事を局所的で偏った解釈をするという無駄を原因として生まれます。偏った解釈を生むのは、偏った情報ですから、正しい(偏らない)情報を得ることでも無駄は止まります。合理的思考(論理的思考により無駄を無駄と理解していること)によってもこの偏った解釈である不合理的思考(非論理的思考により無駄を無駄と理解していないこと)は止まります。

哲学を探究するジュニャーナ・ヨガでは論理的思考によりこの無駄を止めていくのかもしれません。ひょっとしたら古代ギリシャの哲学者、かのソクラテス(紀元前469年頃 ~ 紀元前399年4月27日)なんかもそうなのかもしれませんね。無駄をすること(行為)を止めれば、幸せ・健康(状態)に至ります。

無駄な行為 → 止める → 正しい状態

無駄に気づく

無駄を「止める」ためには、無駄をしていることに「気づく」こともまた必要です。身体君の使い方であれば、局所的で偏った筋肉の使い方をし、不合理な動き方をしていること(「リキミ」や「ギコチナサ」や「不快な感覚」など)に気づくことが必要です。思考君の使い方であれば、局所的で偏った解し方をし、不合理な考え方をしていること(「欲」や「怒り」や「不快な感情」など)に気づく必要があります。そして気づくために必要なのが「観察(意識的に認知すること)」です。

観察の極意といえば瞑想です。瞑想とはすべての行為を止めることで、無思考状態に至るための方法です。「瞑想をしよう!」という言葉ではあっても、その内実は、「する」ではなく究極の「止める」なのです。瞑想とは、観察、あるいは集中により思考君の働きに気づき、思考君の働きを止めることです。

ヨガや仏道であれ、武道、茶道、書道であれ、その極意は無駄な行為(呼吸・姿勢・動作・思考)を止めることだといえるでしょうか。

あらゆる無駄が止まるとき、涅槃(無我→無認識→無解釈)に至る……。

涅槃(ねはん)とは、「悟り」のことです。

シンプルに

「シンプルに心地よく生きる」ーシンプルとは即ち無駄がないことですから、もちろん無理がありません。シンプルな暮らしとは、全体(自然の働き)に協力・調和した生き方といえます。自然の働きに則すほど、そこには疲労・苦労は無く、軽快に心地よく暮らしていけることでしょう。私たちは全体の中の一部分です。それを理解せず、独りよがり、自分勝手に物事を押し通そうとすることは、無理をすることにつながります。それでは疲れます、やがて故障します。部分は、全体に協力・調和したときにこそ、その力が遺憾なく発揮されます。一人はみんなのために!

みんな(全体)は、一人(部分)のために今も働いてくれていますよ。

行為がすべて無駄といっている訳でありません。

正しい状態からは正しい行為が自然発生します。


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