2013-02-16

観察

気ままの雑記から習う

2月も半ばを過ぎ、日も長くなってきました。みなさま、朝のお目覚めはいかがでしょうか? 尾山広平です。

立春も幾日かが過ぎ、身体的自然的な流れでは春に入りましたが、まだまだ冷えますね。みなさまの身体君は、冬モードですか? それとも風邪でも引いて、一気に春モードに激変した人もいらっしゃるでしょうか? この激動の時季をスムーズに乗り切りたいものです。

さて今回は、”観察”についてのお話しをしたいと思います。

ヨガの本分

ヨガとは、観察することに始まり、観察することに終わります。身体操作のヨガでも、動作・姿勢・呼吸など、主に身体君の感覚を観察をしていきます。瞑想(坐禅)では、主に思考君の働きを観察していきます。ヨガ=自己観察といえるでしょう。

観察の対象は、自分の内側(感覚・感情・イメージ・思考)です。といっても、自分の外側を観察することでも、自分の内側を観察することはできます。――あそこに立っている人は、伸長が180㎝はありそうだ、肌の色が黒めだ、恐そうだ、ジーンズがよく似合う――などと評価・判断している自分の思考君の働きを観察できます。

あるがままの働きを知る

慢性的な痛み、怠さがあるなら、その感覚から目を背けず、ただ事実(ありのままの状態)を意識し認識する。痛いのは嫌だ、どうにかしたいと思ったのなら、その思いもまた意識し認識する。この怠さ、どうにかならないかな~と思ったのなら、その思いもまた意識し認識する。

日常でイライラ、ドキドキしたなら、その感情から目を背けず、ただその事実(ありのままの反応)を意識し認識する。イライラする自分を小さいヤツだと自己嫌悪したなら、それもただ意識し認識する。ドキドキしている自分を弱いヤツだとさげすんだなら、それもただ意識し認識する。

それが、観察するこということです。観察するとは、あるがままの働きを意識し認識することです。

事実確認についてはこちら

雑記10

では、ここで判断基準のお話しをしておきます。

判断基準

判断基準のものさし

私たちの思考君は、まず世界観・信念を作りだします。次にそれを基にして、様々な判断・評価基準(価値観)を作り出します。

たとえば、[いい/悪い]の世界観を作った人であれば、[正しい/間違い→いい/悪い]、[褒められる/叱られる→いい/悪い][美しい/汚い→いい/悪い]、[素敵/ダサい→いい/悪い」などの判断基準を作り、それにそって行動指針を作っていきます。

これは、思考君に備わった自然な働きです。それを持ってていないはずはありません。誰の思考君も、必ず作り出します。そして、この判断基準を持っていることが、観察することを妨げる要因になります。

落とし穴

 落とし穴

修行とは、不満・不安(=苦)を滅することが目的です。修行が進むと、いい/悪い、正しい/間違いなどの判断基準が減っていき、そして不満や不安を感じることが減っていきます。すると、私は修行が進んでいるから「いいとも悪いとも、正しいとも間違いとも思ってなんかはいない。私はそんなことで腹を立てたりはしない。俺はこんなこと恐くなんかない。」などと、自分が判断基準を持っていることや、不満を持っていることから目を背けて、あたかもそれらが無いように取り繕ってしまうのです。自分でも気づかないほどに、思考君は巧妙に取り繕うことさえあります。

それは、[修行が進んでいる/進んでいない→いい/悪い]という判断基準を作ったからといえます。さらに、[判断基準を持っていない/持っている→修行が進んでいる/進んでいない][落ち着いている/腹を立てる→修行が進んでいる/進んでいない][勇敢/臆病→修行が進んでいる/進んでいない]などというような判断基準も作ったからといえます。

しかし、取り繕ってあるがままの事実を隠していると、いつまでたっても修行が進む(苦が減っていく)ことはありません。それでは修行が進まないどころか、正反対に向いています。これが修行の落とし穴です。

誠実に向き合うために

他人を見てはすぐに「正しい/間違い」を判断する自分の思考君の働きを否定したり、「そんな判断はしていない! イライラなんてしていない!」と事実から目を背けたりする働きを観察してみましょう。その働きの「真の正体(原因)」を意識し、認識できたなら、その働き(判断基準)はなくなります。

すると、ありのままの働きから目を背けず、誠実に向き合うことができるようになります。それが修行者の心の向きです。観察することは、苦を滅することになります。そしてそれは、思考君の勝手な働きを止めることになり、「働き」ではない「本当の自分」を知ることへと導かれる(ようです……)。

以下、尾山ヨガ教室のご紹介より(※ 筆記当時のものです)

そして、レッスン中は、常に『観察者であること』を目指します。更には日常生活でもその状態を目指します。

それは「今」という瞬間、瞬間を観察しているということであり、無意識ではなく『意識的であること』であり、それは常に『瞑想的であること』ということです。

それが心の働きを静める力であり、無意識な心の働きを消し去る力であり、苦しむことを手放す力であり、悟るための力です。


日々の暮らしの中で、自分が使っている心と身体を、自分と同一視することを止め、心と身体の働きや、今の自分の状況という事実を確認するだけにとどめておくことです。その事実から目を背けたり、どうにかしようとしたり、いい/悪い、正しい/間違いとなどと裁いたり……つまり抵抗することなく、ありのままの事実を事実として認め、受け入れることです。

自分はそれらの観察者であり続け、心と身体という「働き」は、自分という「存在」とは別であることの実感を目指していきましょう。


ただ存在していることの喜び


そんな「今」を、共に過ごしていきましょう。


焦らずに、誠実に、ただただ観察していきましょう。


蓮

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