2013-03-16

分別化

気ままの雑記から習う

3月も半ばを過ぎ、日中はずいぶんと暖かくなり、名古屋市農業センターでは梅が満開を迎えていました。みなさまの身体君の開花具合はいかかでしょうか? 尾山広平です。

身体君は、さらにテンションを下げゆるんでいこうとします。これは古くなった冬モードを破壊し、新たな夏モードの創造をするための準備ともいえます。骨盤の左側をゆるませていくときに下痢を活用することもしばしばで、これはちょうど、女性の生理が始まる前と似た状態です。

さて今回は、修行の本分である”分別化”についてのお話しをしたいと思います。

「私」と「思考君」の同一化

ここでいう「私」とは、自分が自分であると認識している主体のことです。それは思考君の働きが生みだしている観念であり、いわゆる「偽物の自分(自我)」のことです。

「私」であれ、「プログラム的な判断」であれ、どちらもそれは思考君の働きが生み出していることは事実ですが、私たちは通常それを認識することができていません。通常の私たちは、あたかも「私」という実体が存在しているという認識をしています。これが「私」と「思考君」が同一化しているということです。

それは思考君が、私は〇〇という名前、私は△△な体格、私は☐☐な性格……などと、「働き」を寄せ集めて「私」という観念を作り上げているからです。つまり思考君は、この架空の実体である「私(自分)」を作り上げ、それを守ろうと働いているということです。

思考君と私についてはこちら

雑記7

「私」と「思考君」の分別化

思考君は「私」の一部として色々と取り込んでいき、「私」を強固に形作っていきます。しかし「私」は名前でしょうか? 「私」は身体君でしょうか? 「私」は思考君でしょうか? 「私」とは何でしょうか? 「私」が怒っているのでしょうか? 「私」が驚いているのでしょうか?

名前が変わっても、やはり「私」はい続けます。つまり「私」は名前ではなかったのです。同様に、「私」とは体格でも、性格でもありません。「私」が怒っているのではなく、それは単なる「働き」です。「私」が驚いているのではなく、それも単なる「働き」です。

この様に架空の実体である「私(自分)」から「私」でないものを取りのぞいていくと最後には、、、何も残りません。もともと「私」そのものが働きの寄せ集めだからです。

しかし、人は通常「働き」を「私」だとして認識しています。「私って身長151㎝なのよ~、私って足が遅いのよ~、私って几帳面なのよ~、私って大雑把なのよ~、私って短気なのよ~、私ってゴキブリが苦手なのよ~……」などと。ヨガ修行者は、「働き」を「私」と同一視した認識をすることを止める決心をしましょう。

観察する

そして働きを止めるためには、「働き」を観察します。「思考君はいったい何を危険と判断し、何を回避しようとしているのか?」それを観察します。そしてその原因(危険と判断した対象)と結果(自動的な反応)のつながりを観察することにより、「働き」は単なる「働き」であったというその事実に気づけば、「働き」と「私」の同一視が解け、分別視された認識に変わります。これが分別化です。

たとえばそれは、「ゴキブリに驚いてしているのは、私ではない」と「私」が気づけば、同一化していた「ゴキブリに驚く」と「私」は分別化されます。そうなると、ゴキブリに驚く自動的な反応が起きなくなります。

「働き」が、「働き」であることを観察(リアルタイムに実体験)すること、それが修行の本分といえるでしょう。


梅@名古屋市農業センター

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