2011-07-21

方便

気ままの雑記から習う

窓を開けて「涼しい~」とは言っていられない強い風と雨を引き起こしていた台風も、南の海上へと進路をとりました。みなさんいかがお過ごしでしょうか。尾山広平です。

ナスやキュウリ、トマトなどフレッシュな野菜がとってもおいしく感じられる季節ですね。まだスイカは食べていませんが、そろそろ食べたいと思っています。
さて今回は、“方便”についてのお話をしたいと思います。

Step1 学習(守る)

幼虫

私たちは、子どものときに「いい/悪い、正しい/間違い」などの評価基準(行動指針プログラム)を多く作り出します。たとえば、手際が悪いことは悪いこと。早くできることはいいこと。と解釈し、[早く効率的にできること → いいこと]という評価基準を作ったり。親や先生に逆らうことは悪いこと。従うことはいいこと。と解釈し、[親や先生のいうことに従うこと → いいこと]という評価基準を作ったりします。

褒められたり、叱られたりしながら、何がよくて、何が悪いのかを学習していくということです。ちなみにそれは、[褒められること → いいこと]という判断基準も作ることになります。

[早く効率的にできること → いいこと]という判断基準を使えばその指針に従って、思考君は何でも早くできるようになろうとします。そして何でも早くできるようになることは、生きる上で役に立ちますから大いに意味があるといえます。

また、[親や先生のいうことに従うこと → いいこと]という判断基準を使えばその指針に従って、思考君は親や先生に従おうとします。そして親や先生に従っていれば、社会のルールを身に着ける上で役に立ちますし、自分の身を守ることなども学習するでしょうから、これも大いに意味があるといえます。大いに意味のある行動指針とはいえ……。ここで一度、何のために作った評価基準なのか? それを見直してみましょう。

親や先生は、何のために「いい/悪い」を子供に教え込むのでしょうか。それはもちろん、子供を幸せにしてあげようという思いからでしょうが、一言でいえば「自立させるため」といえるでしょうか。言葉を変えれば、『自分のことを自分でできるようにするため』です。そのために判断基準を教えられることでしょう。もちろん理由もなく親の判断基準を、ただ子どもに当てはめるという場合もあるでしょう。

なんにしても、いろいろな評価基準のお蔭で、服も一人で素早く上手に着られるようになりました。頭も身体も一人で洗えるようになりました。朝も一人で起きられるようになりました。使ったものは元の場所に片づけられるようになりました……。何が危険で、どんなところが安全なのかも判断できるようになりました。ですが大人になっても、この[正しい/間違い]の判断基準を持っていると不都合なことも起きてきます。

  • 別に早くする必要のないところで、テキパキ行動したり
  • 他人がのんびり非効率なことをしているとイライラしたり
  • 何でもかんでも褒められようと行動したり
  • やりたくないことなのに、親に言われると逆らえなかった

Step2 断学(破る)

さなぎ

べつにテキパキ行動してもいいじゃないですか? と思えるかもしれませんね。確かに、構わないのですが。いつもセカセカと効率的にすることばかりを考えていては、人生がギスギスしてくるでしょう。思考君が効率的なルートを探さなければ! と追いたてられていては、そこに安心感がないからです。また、他人がのんびりしているのは、その人の勝手なのですが、何故かイライラすることになります。それは自分の持っている判断基準を他人にも適用するような仕組みに頭はなっているからです。早くできることよりも[褒められること → いいこと]の評価基準が働く人は、とにかく叱られないように、そして褒められたい褒められたいと、褒められることをしようとします。いつも他人に目を光らせて頭を働かせていては疲れてしまいます。また早くできることに対して褒められるとも限りません。この場合、褒めてくれないと不満や不安を感じることになります。

「やりたくないことなのにどうも親には頭が上がらない……。」それを、親にはお世話になったから仕方がない。親孝行だ。などと言っているのはよくありません。自分のことを、自分でできるようになるために作った判断基準なのに、自分のことを自分で決断できないのでは本末転倒です。

step3 真過(離れる)

成虫(クロアゲハ)

さあ、ここでもう一度、解釈をし直しましょう。[いい/悪い]を教えられたのも、褒められたり叱られたりしたのも、また自分で作った判断基準も、すべては自分のことを自分でできるようにするための“方便”だったと。そう、『すべては大ウソ』だったと。
こう解釈することができれば、すべての「いい/悪い」の判断基準は消えてなくなります。そうそうすべては大ウソだったとは思えませんが。。また、これからは自分が教える側の立場ですよね。子供に自分の評価基準をただ押し付けるのではなく、子供に教えるとき、自分の評価基準を見直すチャンスにしましょう。判断基準がなくなれば、子供に優しくなれます。ときには厳しく叱れます。それは、優しさ、つまり愛からの行動になります。

判断基準は方便。ぜひ、そう解釈してみてください。そうですね、宣言は


「すべては正しい。」


です。すべてが正しいのですから、自分の世界からすべての間違いはなくなります。すると当然ですが、すべての正しいこともなくなります。

心が自由になります。


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