2017-08-31
言葉は道具
ここのところ、お素麺やひやむぎで食事を済ませていたので、米びつを覗くことがなかったのです。久々に覗いて見ると「あらら〜」虫(ダニ?)が歩き回っているではありませんか。ということで、全部出して、水洗いして、扇風機を回して天日干しして乾かしました。写真は、ついの遊び心で、指で波紋を描いて枯山水っぽくしたものです。ちなみに波紋の中心は虫除け用の鷹の爪です(あまり役立たずか?)
怖がる人 と 怖がらない人
さてさて、お盆も過ぎ去り、ここ愛知県では子供達の夏休みも今日までのようです。そんな夏の終わりに、今日は夏の思い出の一コマを。
毎年、お盆には、父と母の実家に顔を出します。
1.ひゅ〜〜〜どろん
今年はまず、両親に会いに、父の実家へ参りました。テレビが付いており、ある番組が放送されていました。特に見る気もなかったものの、そこから次のような議論の様子が聞こえて来ました。
日本の怪談話に付き物である「ひゅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜どろどろんどろんどろん」などという効果音は、日本文化の中で育った日本人は怖さを感じる。その一方、日本文化の中でで育っていない外国人はまったく怖さを感じない、というような内容でした。
2.4(し)
次の日、叔父に会いに、母と2人で、母の実家へ参りました。夕食後、叔父と母と私で会話していました。そんな中、「4」とう数字についての話題が上がりました。
叔父は「4」という数字に怖さを感じ、日常生活でも避けようとしてしまう。一方の母は、「幸せの4じゃない」と、まったく怖さを感じない、というような内容でした。
①「ひゅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜どろどろんどろんどろん」という音。
②「4」という言葉。
怖がる人 と 怖がらない人 その違いは何でしょう?
恐怖 と 記憶
それは、これまでの体験により蓄積された記憶に条件づけられた心の反応によります。
1.ひゅ〜〜〜どろん
「ひゅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜どろどろんどろんどろん」という音に条件づけられた思想によって、そこに意味が生まれます。その音から、心が何を思い想うかにより、怖いか、怖くないか、が決定されます。
日本人は、「ひゅ〜どろん」という音の記憶に条件づけられた、例えば「お化け、幽霊、火の玉、暗闇、隙間風」などの思想が自動的に浮かんでしまうから恐怖を感じるし、外国人は特別な思想が浮かばないので、恐怖を感じません。
2.4(し)
「4」という言葉に条件づけられた思想によって、そこに意味が生まれます。その言葉から、心が何を思い想うかにより、怖いか、怖くないか、が決定されます。
叔父は、「4」という言葉の記憶に条件づけられた、例えば「死、忌み嫌うもの、不運を招く不吉なもの」などという思想が自動的に浮かんでしまうから恐怖を感じるし、母は「幸せの4」などと言ってはいましたが、特別な思想が浮かばないので、恐怖を感じません。もちろん、日本語を知らない動物や外国人にとっては、何の意味もありません。
このように、心が生み出した思想によって、心は恐怖を感じています。幽霊を自ら想い浮かべて、自らそれを怖がるように。あらゆる恐怖が、このー心の妄想ーによります。
この心のトリックを見破りましょう。
恐怖 と 迷信(誤解)
「音」や「言葉」自体には何の意味もありません。
「4」も「7」も「777」も「4649」も(笑)
「音」や「言葉」に「不吉、幸運、大幸運、ヨロシク」などの意味づけをするのは、心以外には何一つありません。世界は、何一つ意味を持ちません。
日本人にとって「4」は本来「4つの数を示す」などと概念化された観念です。それは便利な道具としての利用価値しかありません。その道具は本来「不吉」や「幸運」を示してはいません。
事実はと言えば、「4」は「不吉」でも「幸運」でもなく「4」であり、単なる「音」に過ぎず、意味を持ちません。あらゆる言葉は、ただ単に言葉です。
このように、ヨガを学ぶ人は、如何なる意味づけをも捨てて、事実を達観しましょう。如何なる意味づけも、私たちを苦しめる妄想だからです。心の起こす妄想以外に、私たちを苦しめるものは何一つありません。
この心のトリックを見破りましょう。
言葉は道具 まとめ
すべての言葉は道具として使ってこそ、生活に役立つものです。
道具に使われては本末転倒です。
どうせ使うならば、役立てていきましょう。