無知の知 ~ 私は何も知らない ~
かのソクラテスの名言として今に伝わる『無知の知』という言葉があります。もちろん、ソクラテスと呼ばれた人がいたことも、ソクラテスがこのような意味合いの言葉を語ったかも、この言葉が何を示しているのかも…… 私は何も知りません。今回は、「知らない」ということについてのお話です。
妄信・誤解
Aさんは、Bさんの自分に対する態度が許せず、Bさんを手にかけました。ところが、事後になってそんなBさんの態度は、自分のためを想ってしていたのだということをCさんから知らされ…… 涙ながらに後悔します「だって、知らなかったんだもん……」
まったくその通り。AさんはBさんの想いを知るよしもないのです。にもかかわらず、ここでAさんは、Bさんの気持ちを妄想し、知っているつもりになっていたからこそ、Bさんを手にかけてしまったのです。
自身の目に見えるところだけを見て勝手な妄想をふくらませることなく、ソクラテスのように「知らない」という事実を「知らない」と自覚していたのなら、AさんはBさんをジャッジして憎むことも、手にかけることも、後悔に苛まれることもなかったでしょう。
人間は、実際には知らないことを妄信によって、知っていると錯覚しているからこそ、他者を裁いて、憎んで、憤って、自身を苦しめているのですね。
そうじゃ。人は多くを知っておるのではなく、ただ、「信じている」だけであり、その錯覚により自他を苦しめておると言えるのじゃ。
我々は、この『宇宙』のことも、『地球』のことも、最もみじかな『自身』のことも知らないのです。それは何なのか? なぜ現れているのか? どのように働いているのか?
私は誰か!?
そのくせ、それを知っているつもりになっているのです。実際に我々が知っているのは、単なる『観念知』であり、つまり『名前』と『色形』に過ぎません。それは心による妄想にほかならず、【事実】でもなんでもないのです。
知識とは『言葉』に過ぎないのです。
例えば、おそらく昔の人々には『宇宙』や『地球』という概念はなかったことでしょう。上を『天』と称し、下を『地』と称し、宇宙のことを『天地』と称していたようですが、それもまたそのようなイメージを信じているということであり、人とは信じた通りの世界のなかに住んでいるのです。
いったい誰が「地球が丸い」と、実際の体験として知っておるじゃろう?
確かに「地球は丸い」だなんて、科学者のいうことをただ信じているだけですね。
要するに人というのは、事実のなかにではなく、観念・妄想のなかに住んでいる訳ですね。
そうじゃ。じゃが、この事実を知る者は稀なのじゃ。
- 「知らない」ということが事実・正解であり
- 「知っている」ということが妄信・誤解です
そしてヨガとは、これら妄信・誤解の除去をすることによって、事実・正解として在るための教えなのです。
真の知識
妄信・誤解を除去していくとは、今まであたりまえに信じていていたことを止めることです。例えば、「私は産まれた。私は死ぬだろう。私は身体だ」などと誰でもあたりまえに信じている観念です。
ひょっとしたら、「だって、それは事実でしょう!」と言い返したくなるかもしれません。しかしながら先に述べたように、それらはただ信じているだけです。それらは『言葉』であり、言葉なしに『私は産まれた』という『思い』はあり得ないのです。
「私は身体」だから「私は身体だ」と思うのではないのじゃ。「私は身体だ」と思う故に、「私は身体だ」があたかも事実であるかの様に体験するのじゃ。
事実だからそう思うのではなく、そう思うからそうなのであり、つまり、思いが現実世界を創っているのですね。
そして、聖典・聖者はそれを打ち砕く事実を示す言葉(マントラ)を伝えます。例えば「あなたは産まれていない。あなたは死なない。あなたは身体ではない」などという言葉を伝えます。
ちなみに、あたりまえに信じていることを自ら確かめる探究的態度が「知識・ヨガ」、聖典・聖者の言葉に自らを委ねる献身的態度が「信愛・ヨガ」と呼ばれています。
また、妄信・誤解を除去するために、妄信・誤解ではないものを伝えます。意識内に浮かんでは消えてゆく妄信への注意を退け、意識内に常に在るものに注意を払うように伝えます。
意識内に浮かんでは消えゆく知識、想念を超えて、疑い得ることなく常に在るものとは何じゃろう? 言葉以前に在るものとは何じゃろう?
「私」です。
そうじゃ。その感覚だけはどう転ぼうとも疑い得ず、確かに在る唯一の事実と言えるのじゃ。この唯一の事実に注意を払うこと、これがヨガなのじゃ。
この事実のみを信じること、関心を持つこと、この事実以外は信じないこと、関心を持たないことによって、これまであたりまえに信じてきた妄想は剥がれ落ちていくのです。
最後にはその『私』さえも『観念』に過ぎないと知られたとき、すべての妄信は自ずと除去されるじゃろう。
そして、「私は何も知らない」という真の知識を手にすることじゃろう。
ここでいう、「あたりまえに信じていること」から関心を離すとは離欲であり、「私」に関心を向けるとは 修習 のことです。
結局のところ……
離欲と修習。それがヨガなのです。