修習と離欲のイメージ
修習と離欲とは、ヨガ修行法の根本的態度であり、「外にないものを外へと探しにいくことを止めて、内にあるものを内に探しにいきなさい」という単純明快な教えに基づいた合理的な方法と言えるものです。今回は、そのイメージについてのお話です。
3つのイメージ
次のイメージによって、修習と離欲の本質を掴みとってみましょう。- 暴れ牛の調教
- 独楽回しの練習
- 影から光へ向きを変える
では、一つずつ見ていきます。
1.暴れ牛の調教
"暴れ牛"は貪愛(幸福を求める心意)と憎悪(不幸を避ける心意)とによって、アッチソッチへと向かって無自覚に奔走し、ココで落ち着くことがありません。修習と離欲とは、"暴れ牛"をココに落ち着かせようとする工夫です。
==前略==
修習とは、散動する心の作用を制止する作業を繰り返す努力であり、それは牛馬が美味しい草を求めて動き回ろうとすることを力づくで引き止める努力に例えることができます。一方の離欲は、散動する心の作用が静止する教育を繰り返す努力であり、それは牛馬に世界で最も美味しい草は ここ に生えているのであり、一見美味しいと感じていたであろう ここ 以外の草は、食中毒を起こす危険な草であるなどといった風に教え込むことにより、牛馬が美味しい草を求めて動き回ろうとすることを自ずから止めさせる努力に例えることができます。
つまりヨガとは、修習と離欲という両輪により、牛馬のように散動する心の習慣を徐々に不動となる習慣へと手なづけていく行法と言えます。
==後略==
『ヨガの八支則』p4 解説の前により
心とは、つなぎ止めておかなければ奔放に動き回るよう"暴れ牛"のように習慣づけられています。しかしヨガでは、この"暴れ牛"のような心の習性を引き止めることによって(修習)、また手なずけることによって(離欲)、心を調教していきます。
『yoga』の語意は「つなぎ止める」と言われています。まさに、心をつなぎ止めることが「ヨガ」の本質という訳です。
2.独楽回しの練習
"さまよう独楽"は貪愛(幸福を求める心意)と憎悪(不幸を避ける心意)とによって、アッチソッチへと向かって自動的に移動し、ココで落ち着くことがありません。修習と離欲とは、"さまよう独楽"をココに落ち着かせようとする工夫です。
==前略==
(ヨガとは)修習と離欲により、心の散動性を減退させ、心の不動性を増進させていく心の制御法です。言葉を変えるなら、心の停滞質と激動質を減退させ、心の純粋質を増進させていく心の浄化法です。また、例えるならそれは、独楽回しの練習のようなものです。最初の内は勢いもなく軸もぶれ、のろのろふらふらと散動して回ったり、勢いはあるけど軸はぶれ、荒々しくあちらこちらと散動して回ったりしますが、慣れてくると勢いもあり軸も通るようになり、1カ所に静止し不動のごとく回るようになるのです。
==後略==
『ヨガの八支則』p166 解説の後により
心とは、軸も定まらずふらふらと回る"さまよう独楽"のように習慣づけられています。しかしヨガでは、ふらつかずに回せるようになることを目標にあげ、何度も何度も練習することによって、この"さまよう独楽"のような心の習性に軸を通し、ふらつかずに留まれるよう、心を訓練していきます。
『abhyāsa』の語意は「何度も繰り返す」と言われています。まさに繰り返すことが「修行」の本質という訳です。
3.影から光へ向きを変える
もっとも単純に例えるのなら、修習とは世界を照らしている"光"に面と向かうこと。そして離欲とは光の"影"に過ぎない世界に背を向けることと言えるでしょう。
==前略==
ヨガの太陽礼拝とは、安定と快適に向け、心身の停滞質と激動質を減退させ、心身の純粋質を増進させていく心身の浄化法です。それは儚く移ろう妄信世界に愛着を持ち、真我に背を向けてきたこれまでの習慣を減退させ、永遠不変の真我を信愛する習慣を増進させていく真我信愛行です。
==後略==
『ヨガの太陽礼拝』p150 解説の後により
心とは、影(世界)のなかに光(幸福)を求めて必死に頑張るよう習慣づけられています。しかしヨガでは、真実を伝えることによって、この心の習性に終止符を打ちます。
ここでの真実とは、影のなかに光はないという当たり前の事実ですね。
そうじゃ。ヨガとは明らかな真実を実践することなのじゃ。影に光を探すことを止め、光源としての自己を発見する道。それこそがヨガなのじゃ。
それは簡単なことのようで、やはり難しいことです。
内への強い希望があるならば、離欲は難しいことではないのじゃ。或いは外への強い絶望があるならば、修習は難しいことではないのじゃ。
これが修習と離欲、即ちヨガ実践の要点なのじゃ。
つまり修習と離欲とは、「内への希望」と「外への絶望」を体現する方法という訳ですね。
そうじゃ。ヨガとは真実への希望、虚像への絶望なのじゃ。そして真実の受容、虚像の拒絶なのじゃ。
人生の苦痛を自覚したゴータマのように、人生の悲痛を嘆いたアルジュナのように、儚く理不尽な人生に絶望するべきなのじゃ。そして、多様に彩られた人生に背を向け、単一無垢なる真我を求めるが良いのじゃ。