ヨガの太陽礼拝(P11,12)

礼拝

♨ まんぐーす爺さんの教説から習う

古来日本においても、神社仏閣、或いは食前食後において、両手を合わせ神仏などに礼拝してきた様に、何時如何なる時代、場所であろうと、そこに人がるならば、礼拝と呼ばれる行為は営まれてきた事じゃろう。礼拝とは何じゃろうか? 人は何故なにゆえに礼拝するのじゃろう? 無論、人は誰も皆、苦痛からの解放を求めておる故じゃ。人は「私は何もできない、私は何も解決できない」などと己の無力さを素直に認める時、己を越えた存在に祈らずにはおれぬものじゃ。そう、礼拝とは人に備わった根源的衝動であり、それは「どうか、我々をお救い下さい」などという祈念、祈願の表現なのじゃ。

ヨガへの道を進みゆく者は、記憶観念に基づく虚偽いつわりの私の無力さを覚悟さとり、その目的である真実まことの私、即ち、意識に礼拝するが良いのじゃ。

♨︎ 心の形:身体

古来日本においても、膝を突いて顔を伏せる礼式が為されてきた様に、古今東西、心意という目に見えぬものを相手に伝えるためには、目に見える色形、即ち身体が用いられて表現されてきたのじゃ。日本語においては、「膝を折る、ひざまずく、屈する、平伏ひれふす」などの身体行為を示す言葉が、そのまま「相手への無抵抗、服従、敬意」などの心意行為を示す言葉へと転じた様に、人にとって心意的態度と身体的態度とは、切っても切れぬ関係にあるのじゃ。

人が「どうかどうか」と真剣に祈る時、ひざまずかずには、こうべを垂れずには、身を屈めずには、股を閉じずには、わきを閉じずには、両手を強く合わせずには、目を強く閉じずには…… おれぬものじゃ。祈りの心に限らず、喜びの心、怒りの心、哀しみの心、楽しみの心、横着な心、横暴な心、正直な心など、如何なる心であろうと、その気質作用エネルギーに応じて姿色かたちは現れるものじゃ。

♨︎ 心の形:言葉

古来日本においても、家内安全、良縁成就、商売繁盛などと願意がんいの言葉が用いられてきた様に、古今東西、心意という耳に聞こえぬものを相手に伝えるためには、耳に聞こえる音声、即ち言葉が用いられて表現されてきたのじゃ。心意的態度とは言語的態度に他ならず、様々な行為は言葉に基づくのじゃ。音声ことば色形イメージの想起が心意であり、音声ことば色形イメージが言語発声を通して行為された時それは言動と成り、音声ことば色形イメージが身体動作を通して行為された時それは行動と成る。

礼拝とは即ち、何処までも無力な私にどう仕様も無く想起し続ける切なる願いが、何処までも有力なソレに見え、聞こえ、伝わるよう、動作や発声を通して表現せずにはおれぬ衝動であり、ソレに祈念する行為と言えるのじゃ。最早もはや私は、切なる願い ― 苦痛からの解放 ― に向けて何をどうする事も手放し、只々ただただ私は、素直に祈り続ける。真の礼拝とは、ソレに従う献身と奉仕であり、それは献身バクティヨガ、奉仕カルマヨガとも呼ばれ、私意私欲に無関心と成る事がその本旨なのじゃ。


さあ、真我に礼を尽くしなさい。


礼拝


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