2020-01-08

2012-02-22

気ままの雑記から習う

まだまだ朝は冷え込んではいるものの陽射しは強く、洗濯ものも乾きやすくなってきたこの頃。みなさまいかがお過ごしでしょうか。尾山広平です。

2月を過ぎると身体君はそろりそろりと右側からゆるみ始め、左側、右側……と交互にゆるんでいき、4月で完全にゆるみきろうとします。この時季に、静の冬から目を覚まし、動の夏への準備をし始めるということです。腰椎4番に弾力があることや、のほほんと過ごすことがその流れに乗ることになるでしょう。春はのんびりとイきましょう。

さて、前386年2月15日は、御釈迦様ことゴータマ・シッダールタの命日だそうです。そして一週間前の2月15日水曜日は、私の祖母も天寿を全うした日となりました。そんな祖母を偲びつつ、今回は”死”についてのお話をしたいと思います。

死への対処法

私たちにとって、死ぬことほど怖いものはなく、死に別れることほど辛く悲しいことはないのではと思います。この「死」という私たちの大問題は、人類史始まって以来、人類が向かい合ってきた普遍的テーマといえるでしょう。そしてこのような、人が本来的に持っている大問題の答えを説いてきたのが宗教といえるでしょうか。

仏教では輪廻転生と解脱という形で、キリスト教では終末に再臨するイエスによって永遠の生命が与えられるという形で、他の宗教でも霊魂の不滅という形……などと死の問題に対処してきたようです。もちろん宗派によっても色々な違いがあるとは思うのですが……。

私が物心ついた頃には、「そんなことをしていると次に生まれてくるときに人間に生まれてこれないですよ。」なんてことを耳にしていた覚えがあります。科学万能、唯物主義が蔓延していたであろう日本であっても、やはり仏教国なんだということをうかがい知ることができます(かといって本来の仏教の教義とは違う思想だとは思いますが)。といいつつもやはり、科学万能的な風潮を受けてなのか、幼い私の頭は、「死=消滅」と思っていた覚えがあります。幼い子供にとってそんな考え方は、恐怖以外の何物でもなかったはずです。かといって脅えていただけではなく、戦争のない平和な日本に生まれてきたことを幸せに思っていたのを覚えています。

宗教の役割

胎蔵界曼荼羅

宗教というものが人の心の拠り所とされてきたのは、考え方ひとつで死に対する恐怖心・不安感が軽減されるからだと考えられるでしょう。「死んでも自分は存在する」「天国に行く」「生まれ変わる」なんていう教えを受ければ、それが事実であれ方便であれ、自分や家族の死を受け入れやすくなるということです。しかし宗教には信心というものが必要不可欠であり、教えを信じなければ恐怖心・不安感を減らす効果はないといえます。そして科学一辺倒の近年代の人の頭は、素直に信じることができなくなったといえます。

迷いを減らすための宗教が、迷いを生んでしまっていたのでは本末転倒です。しかしこのことは、言葉を変えれば「より合理的になった」ということでもあります。ですからそんな今の時代に合った宗教の形は、「合理性の追求」といえるかと思います。それはつまりシッダールタやイエスが説いたであろう比喩や方便を含め教義の本質を合理的に理解することです。
     

宗教の本分

シッダールタやイエスが説いたのは「死」ではなく「生」に根ざしていることでしょう。「死んだらどうなるのだろう? なぜ生まれてきたのだろう? などと考えても分からない問題は放っておきなさい。それよりも今与えられている生に感謝し楽しみなさい。そのために修行しなさい。そして悟りなさい。」ということであり、それが宗教の本分なのだと考えます。おそらくシッダールタもイエスも「悟る方法=心の働きを止める方法」を説いていただけではないでしょうか。

シッダールタ(釈迦)やイエス(キリスト)が説いた言葉は、「死と生」のどちらにも根差してはおらぬのじゃ。その言葉はただ、「真実」に根差しておるのじゃ。

2020/01/08

シッダールタは、それまで敷居の高かったヨガ(修行法)を万人に分かりやすく説いた人であるように思います。多くの人に分かりやすく教えるには比喩が役に立ったはずですし、また一人ひとりに合ったアドバイスをするには方便が役に立ったのでしょう。おそらくイエスもまたそうなのでしょう。しかし時が経ち、時代が移ろえば比喩は分かりづらくなる可能性が高く、また受け取る人が変われば方便は迷いの元にもなりかねないのです。

般若心経

先日の祖母の葬儀では、ご住職さんがお経を唱えてらっしゃいました。もちろんそれには儀式としての意味が生まれていることでしょうし、説法する時間ではないのでしょう。しかし、お経は唱えるためのものではなく、その「意味を理解し修行に生かすもの」というのがヨガ的(合理的)な見解です。お経は修行のテキストであり、心の取扱説明書のはずであり、意味も分からず唱えられてもお経本来の役割が台無しです。

また、葬儀の中でホールのスタッフの方が「……命の根源に還られました。」とおっしゃられていましたが、ヨガ哲学でいえば命の根源とは「意識」です。そしてそれを言葉で理解するだけではなく、それを体験しようとするのがヨガ(修行)です。そしてそれが宗教の本分でもあることでしょう。

ヨガとは、根源である【意識】を"体験する"のではなく、ただ【意識】としての自己に永遠に安住しておるだけなのじゃ。そこには、「体験する者、体験、体験する事」は不在なのじゃ。

2020/01/08

大切な人との別れも、大切な人との別れを惜しんでいる人を見るのもとても辛く苦しいものです。天国や地獄と言われるような死後の世界があるかもしれません。ないかもしれません。生まれ変わるかもしれません。生まれ変わらないかもしれません。やはりあってほしいと願うのが人情というものだと思います。

この世界は不思議なことで満ち溢れています。何が起きようが、何があろうが、不思議ではありません。もともとが摩訶不思議だからです。私自身この世界への興味は尽きることがありません。そんな不思議さの中で、死から逃げることなく、死と正面から向き合い、そして今与えられている生に感謝し楽しみたいです。そのためのヨガ(修行)なのですから。

そのためのヨガと言っているのは個人的な意見に過ぎぬのじゃ。本来のヨガは、生を楽しむためのものではなく、生の苦から逃れるためのものなのじゃ。

2020/01/08


イトスギ

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