2012-04-01

許し

気ままの雑記から習う

梅が咲き、別れの季節も過ぎ去り、桜の蕾が芽生え、いよいよ出会いの時季である4月に入りました。みなさまいかがお過ごしでしょうか。尾山広平です。

この時季は、体内の大掃除もそろそろと、身体君はますます全身をゆるめ、完全なリラックスモードへと向かっていきます。頭からもエネルギーを発散しつづけ、肩甲骨や腸骨の周辺の反応が敏感になります。肩甲骨回りを動かし、ゆるめ、エネルギーの流れを促していきましょう。

さて今回は、“許し”についてのお話をしたいと思います。

親を許せない?

子どもは育ててもらう中で、親に対して色々と「許さない」という思いを持つものです。親も親として未熟なのが普通とも考えられるからです。ですから、自分も親の年齢になってみると、「親も親を経験するのは初めてのことだったんだな~、親も一人の悩める人間で、それなりに一生懸命育ててくれたんだろうな~」という感想になったりします。親を一人の人間として客観視できるようになり、親を許したという訳です。大人になったともいえるでしょう。

ところが、親の理不尽さが、自分に理解できる範囲を超えている場合や、親のせいで自分はとても苦労したなどと認識している場合、親は敬うべき立派な存在だと認識していたからまだ我慢できていた場合など、親の未熟さを知ることで「許せない、意味が分からない、最低だ、ふざけるな、親失格だ。」という感想になったりします。それは大人になりきれていないともいえるでしょう。

許さないことの障害

「許さない」という思いを持ち続けていることは、その対象と闘い続けているともいえます。そこに安心感はなく、自分を守るために筋肉を緊張させ、その対象を攻撃しようとします。ですから親を許すということも、人生に安心感を持つためには必要であり、人生を楽しむのにも必要であり、それはとても大切なことと考えられます。

そしてこの闘いを終えるためには、親は危険という認識を安全という認識に変えることです。自分を守らなくても、攻撃しなくても、自分は安全だという認識が必要です。そのためには、自分は親から害を被っていたという被害者意識を無くすことです。被害者意識が無くなれば「許さない」という働きは止まります。ですから「許す」という心理的態度になります。

客観視する

では、この被害者意識を無くすにはどうするのか? それには俯瞰的に人間(自分が子供の頃の親と自分)を客観視することです。親といえども一人の悩める人間であり、理不尽になるほど生きることに苦労していたのだ、親もそういう生き方しかできなかったのだという解釈をするということです。そしてヨガは、自分と自分の使っている思考君とを区別し、思考君の働きを俯瞰的に客観視する練習そのものです。

自分の思考君の働きを知ることは、親の思考君もまた、そう働くような学習をしてきたんだという解釈につながることでしょう。その後について来るのは、被害者意識ではなく、同情心です。その頃の親が小さくみえます。そして今の自分は親の理不尽に服従する必要はないほど強く、見捨てられても生きていけるほど強く感じます。

幼い頃の自分を許す

ところが、心の表面(意識、今)で客観視できても、心の奥(無意識、記憶)では「許さない」という思いを持ったままの場合があります。そうなると何故だか親に対して緊張感を持ってしまったり、攻撃的な態度を取ってしまうことになります。それはまだ子供の頃の自分が、その頃の親に脅えているからと考えられます。ですから、そんな幼い頃の自分に伝えてあげます。

  • 「理不尽なことを、許せなくて当然だよ。」
  • 「子どもなんだから、脅えていて当然だよ。」
  • 「ずっと頑張って、自分を守ってきてくれてたんだね。」
  • 「もう大丈夫だからね、ありがとう。」

その頃の悔しさ、情けなさ、悲しさ、怖さなどを認め、弱かった自分を許してあげます。許すことができないでいる幼い頃の自分を許してあげます。すると、記憶の中にある幼い頃の自分は安心します。親から身を守ろうとする行動指針プログラム(心の奥にあった働き)が止まります。その働きが止まれば、「許す」という心理的態度になります。きっと「どうしようもない未熟な奴だったんだ(なんだ)な~。」と心の奥底から思えるでしょう。

不必要なプログラムが働かなくなれば、その分緊張感は減り、人生に安心感が戻ってきます。心が大きくなった気分になります。つまりより大人になります。より優しくなります。そしてより人生が楽しくなります。そのために、許しましょう。


桜の蕾

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