ヨガの八支則(P11〜16)

幸福

♨ まんぐーす爺さんの教説から習う

ヨガとは真の幸福を追求する道なのじゃ。故に幸福とは何かを考えてみるが良いのじゃ。幸福とは心のどの様な状態を示しておるのじゃろうか? 例えばお気に入りの鉄道や自動車、超人機械ロボットなどの模型を手に入れたり、お気に入りの偶像アイドル貼り紙ポスターや楽曲、漫画本、理想の伴侶、家庭、などを手に入れる事による心理状態じゃろうか? それとも趣味に熱中する事や、自身の持つ能力を活かす事による心理状態じゃろうか? はたまた理想の精神や肉体を手に入れ、理想の人間に成る事による心理状態じゃろうか? 

ヨガへの道を進みゆく者は、幸福とは何かを良くよく考えてみるが良いのじゃ。

♨︎ 不幸と関心、無不幸と無関心 ①

どの様な物事であろうとことわりは同じじゃが、ここでは二つの例で考えてみるのじゃ。

鉄道模型を持たぬ事に不幸を覚える者は、鉄道模型に執着し、鉄道模型に関心を持つ事と成るのじゃ。逆に、鉄道模型を持たぬ事に不幸を覚えぬ者は、鉄道模型に執着する事は無く、鉄道模型に関心を持つ事もまた無いのじゃ。

同じ様に、理想の伴侶を持たぬ事に不幸を覚える者は、理想の伴侶に執着し、理想の伴侶に関心を持つ事と成るのじゃ。逆に、理想の伴侶を持たぬ事に不幸を覚えぬ者は、理想の伴侶に執着する事は無く、理想の伴侶に関心を持つ事もまた無いのじゃ。

何も持たぬ事に不幸を覚えぬ者が、何に執着し、何に関心を持つじゃろうか?

♨︎ 不幸と関心、無不幸と無関心 ②

鉄道模型に関心を持つ者は言うじゃろう。「鉄道模型のない人生なんて考えられない、これこそが私を満たし、幸福にしてくれるのだ。鉄道模型に関心がないなんて人は、人生を損している可哀想な人だ」などと。逆に、鉄道模型に無関心である者は言うじゃろう。「鉄道模型!? あははっ、そんなくだらない物にお金を掛けるなんてバカげている! あなたの方が余程に人生を損している可哀想な人だ」などと。

同じ様に、理想の伴侶に関心を持つ者は言うじゃろう。「理想の伴侶のいない人生なんて考えられない、これこそが私を満たし、幸福にしてくれるのだ。理想の伴侶に関心がないなんて人は、人生を損している可哀想な人だ」などと。逆に、理想の伴侶に無関心である者は言うじゃろう。「理想の伴侶!? あははっ、そんないるかも分からない人を探し求めるなんて時間の無駄じゃないか! あなたの方が余程に人生を損している可哀想な人だ」などと。

何にも関心を持たぬ者は言うじゃろう。「どちらも無知で、可哀想な人だ」などと。

♨︎ 不幸と関心、無不幸と無関心 ③

鉄道模型に関心を持つ者は、鉄道模型が手に入らなかったり、手に入れた鉄道模型が破壊されたり捨てられたりしたならば、嘆き悲しみ不幸を覚えるじゃろう。逆に、鉄道模型に無関心である者は、鉄道模型が手に入らずとも、手に入れた鉄道模型が破壊されたり捨てられようとも、不幸を覚える事は決して無い。

同じ様に、理想の伴侶に関心を持つ者は、理想の伴侶が見つからなかったり、理想であった伴侶が理想から掛け離れたり、別れたりしたならば、嘆き悲しみ不幸を覚えるじゃろう。逆に、理想の伴侶に無関心である者は、理想の伴侶が見つからずとも、理想であった伴侶が理想から掛け離れたり、別れたりしようとも、不幸を覚える事は決して無いのじゃ。

何にも関心を持たぬ者は言うじゃろう。「これでお解りでしょう。あなた方は苦しみの種を手に入れようと努力し、そして苦しみの種を手に入れたことを喜んでいるのです」などと。

♨︎ 修習と離欲

期待や希望を抱かぬならば、不安や落胆、失望や絶望もまた起こる事は無い。不安は期待の裏返しであり、何時の時もドキドキとワクワクは同時に起こるものじゃ。そして、何時の時も喜びは苦しみに変わり、苦しみは喜びに変わる。喜び無くして苦しみ無く、苦しみ無くして喜びもまた無い。喜びと苦しみは硬貨コインの裏表であり、おぬしの見ておるその広大な世界には、苦しみの種しか落ちておらぬのじゃ。

世界には幸福も無ければ不幸も無い。何故ならおぬしの心が幸福と不幸を生み出す原因そのものだからじゃ。鉄道模型に関心を持つ者、理想の伴侶に関心を持つ者、何にも関心を持たぬ者、この三者の幸不幸の違いは状況にではなく、状況に対する心の反応に有るのであり、それ以外には無いのじゃ。そして実のところ、喜びとは、欲を満たした時に関心が一次的に止む故に現れるものなのじゃ。元々無関心であれば元々喜びはある。幸福は元々ある本物であり、不幸は心に後付けされる偽物なのじゃ。

実に単純なこのことわりを解せぬ者は、快楽(喜び)を求め、苦痛(辛さ)を避け、何物かを持とう、何事かを為そう、何者かに成ろうなどと、外側に見える世界へと関心が向き、苦の種を拾う事を生きる糧とし、必死に頑張り続けるじゃろう。そう、「何時の日かこの努力は実を結び、幸福に辿り着けるはずだ!」などと勘違いしながら……。逆に、この理を解する稀有な者のみは、外側に見える世界への関心が止み、苦の種を拾う事を止める。そして内側へと方向を変え、心それ自体の探究へと向かうじゃろう。

この内側 ―― 心自体 ―― への探究こそが、修習しゅうじゅうと呼ばるヨガ行法の基本的態度なのじゃ。そしてまた、外側 ―― 快楽と苦痛の世界 ―― への無関心こそが、離欲りよくと呼ばれるヨガ行法の基本的態度なのじゃ。成熟した心 ―― 自我 ―― のみが、この単純なことわりを素直に解し、修習と離欲の道を進むじゃろう。

♨︎ 苦悩の意義

古代インド釈迦(śākyaシャーキャ)族の王子ゴータマ・シッダールタは、世俗的に見るならば、何一つ足りぬ物など無く恵まれておった。ところが29歳にしてこの王子は、その地位も財も人々も捨てて家を出た。王子の心内に何が起こったのじゃろう? 王子は「世界には決して手に入らない物事があるのだ。私は日に日に老い、時に病み、そして必ずや死ぬのだ。私がこれらの苦しみから逃れることは不可能なのだ」などという様な現実を、目の当たりにしたと伝わる。

そう、王子はこのまったく不条理な現実を直視する事により、「世界は苦悩に満ちている」という実直な見解を持ったのじゃろう。この見解により﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅、王子は世俗を捨て、この苦悩に満ちた世界から脱け出るため、悟りの探究へと旅立つ事と成った。そしてその後、心自体の探究により苦悩の根因を見破り滅し、目覚めた者 ―― 仏陀(buddhaブッダ―― と呼ばれる真の幸福者と成ったのじゃ。

そう、心地良い眠りからは誰も目覚めたくないものじゃ。苦しい眠りじゃからこそ、人は目覚めたく成るものじゃ。そうであるからして、快楽はおぬしを惰眠へと沈み込ませる悪魔と呼べ、苦痛はおぬしを覚醒へと追い立てる天使と呼べるのじゃ。即ち、苦しみこそがおぬしに、幸福 ―― 内側 ―― へ向かうための動機を生じさせる要因であり、真の導き手と成るものなのじゃ。

♨︎ 行為と動機

世俗に住まぬ者が出家者なのではない。シッダールタ王子の様に、世俗を放棄する覚悟を持った者こそが、まことの出家者と言えるのじゃ。同じ様に、真実に関心無く、快楽と苦痛の反復を繰り返し続ける世俗への関心から離れる意志の無い者が、大層な体位を取り、調気を行じ、坐して瞑想に耽っておるところで、それが一体何だと言うのじゃろうか? それはまったくって、ヨガを行じておるとは言えぬのじゃ。

動機、目的が異なるならば、それは何をしておろうともヨガとは呼べぬのであり、明らかに不幸への道を歩んでおると言えるのじゃ。逆に、動機、目的がヨガに適っておるならば、それは何をしておろうともヨガと呼べるのであり、正しく幸福への道を歩んでおると言えるのじゃ。ヨガとは本当におぬしの為なのであり、おぬしの小ぽけな欲を満たす為のものではない。己の快楽の為にではなく、自身が成長する為に取り組みなさい。おぬしの大欲を満たしなさい。

何事も重要なのは、何を ―― 為すのかではなく、何故に ―― 為すのかという動機なのじゃ。右と左どちらを選択しようとも、其処に重要性は無い。重要なのは何故それを選んだのか、の方なのじゃ。例えば奉仕活動にしても、優しい人だと思われたい、冷たい人だと思われたくないなどと、己の欲望や恐れからそれを為すのか、それとも幸せに成って欲しい、成長して欲しいなどと、他者への気遣い、思いやりからそれを為すのか、により運命は左右に別れるものじゃ。

傍目にはどの様な動機であろうとも「奉仕活動」という同じ活動を為しておる様に見える。じゃがしかし、神の目が騙される事は無い。そうじゃ、神様はちゃんと観ておるのじゃ。この二つはまったく異なる行為﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅であり、先は悪い行為の『悪業』とされ、後は善い行為の『善業』とされる。其々の『カルマ』は潜在記憶に蓄積され、悪業は厄を招き入れ、善業は厄を追い払う、などという業報ごうほうを其々にもたらすのじゃ。

行為(業)とは、心の反応、心の反応を言葉に表した言動、心の反応を活動に表した行動の3つが言われる。じゃが実際の処、何を ―― 為すのかという外見の言動や行動よりも、何故なにゆえ―― 為すのかという心内の動機が主な要因と成り、人の運命は形作られておるのじゃ。但し、ヨガ行者に限っては…… 行為そのものから離れてゆく故、悪業も積まず、善業も積まず、業を蓄積せぬ無為の善業などと言える様な態度と成ってゆき、運命をも超えてゆくのじゃ。

♨︎ 真のヨガ行者

個人とは常に、仕事に就きたいが人付き合いは…… 意中の人に告白したいが振られるのが…… お金は欲しいが働くのは…… などと欲し求めつつそれを恐れ避け、期待しつつ落胆を恐れ、結果を欲しつつ努力は避けるという様に、同時には成り立たぬ欲を無数に抱えておるのじゃ。努力とは誤解から起こる自己矛盾、葛藤の表れじゃ。そして理解とは誤解を止める事﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅であり、それは葛藤を滅する事でもあるのじゃ。

幸福と不幸の心理を良くよく理解し、その誤解に基づく行為を手放してゆきなさい。変化して止まない世界の中に幸福を追い求める努力それ自体が、苦しみを生む原因と成っておる事を良くよく理解し、その愚かな行為を手放してゆきなさい。外側に見える世界への執着とは、束縛そのものであり、災いの種でしかない事を良くよく理解し、その愚かな執着を手放してゆきなさい。

好きなもの、欲しいものを求める事こそが、自由であり幸福であるとする確信を放棄しなさい。嫌いなもの、恐れるものを避ける事こそが、自由であり幸福であるとする確信を放棄しなさい。そして、好きも嫌いも、欲しいものも恐れるものも、何も持たぬ無執着の態度こそが、自由であり幸福である事を確信し、束縛と葛藤から解放されなさい。

外側への努力を諦め、注意を内側に向けなさい。内側には常に、観るものとしてのおぬしが在る。意識としてのおぬしが在る。気付きとしてのおぬしが在る。気付いておる事に気付いておきなさい。おぬし自身に気付いておきなさい。おぬし自身と共に在るというその単純な態度こそが、欲望と恐怖の奴隷から、おぬしを解放してくれるヨガ行者の根本的態度なのじゃ。

真のヨガとは、心の内外を問わず、そのすべては意識の内に現れては消える儚い思想であり、そのすべては<私>の外側で快苦を波打つ幻想であると観て、外側(思想)への関心を引き離す事 ―― 離欲 ―― と、内側(意識)のみへと関心を向ける事 ―― 修習 ―― 、それなのじゃ。何をしておろうとも、どの様な状況に置かれようとも、内側へと関心を向け続ける者、或いはそれに向けての補助的な修練をする者こそ、真のヨガ行者と言えるのじゃ。

真に幸福を求める者は、修習と離欲を基本的態度とする真のヨガの道を進むが良いのじゃ。


さあ、真のヨガ行者になりなさい。


幸福


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