【禁戒④】非交際

ヨガを一から習う

2-38

非交際(梵天準拠)の戒律に徹するならば、巨大な力が得られる。

『ヨガ・スートラ』

④ 非交際:ブラフマ・チャーリヤ

他者と付き合ってはならない、という禁止戒律である。原語である『brahmacharya』は、「至高者、絶対者、唯一神」などを示す『brahman』と、「準拠、規範、行為」などを示す『charya』とからなり、一般的には「禁欲、節制、独身」などとも訳されている。仏教では『brahman』をその音訳から「婆羅門天、梵天」などとも称している。

因みに、仏典では五戒の3番目、聖書では十戒の後半2番目を「不邪淫戒」としている。

連帯と孤立

非交際の戒律に徹するには、これに背こうとする思想が起ってはならない。これらの戒律に背こうとする思想は、例えば「連帯したい」などの欲望(貪愛)と、「孤立したくない」などの恐怖(憎悪)を動機として起こる。即ち、連帯と孤立への関心、執着から起こる。そして連帯と孤立への関心は、『自と他』を示す相対的観念である無明を根因とし、『連帯と孤立』を示す相対的観念との自己同一化である我想を原因として起こる。
※ ここでは交際のより直接的な要因となる連帯と孤立を例として示している。

非交際の戒行の意図は、まず単純に、道徳心、自制心、意志力、忍耐力などを培うことである。


そして他者と付き合おうとする心の作用を起こす動機となる、連帯と孤立を含め様々な相対的観念による快楽と苦痛への関心を止滅し、心の散動状態を維持する習慣を排除することである。

対抗思想:原因と結果の理解

非交際に背こうとする思想に対抗する思想とは、連帯と孤立への無関心を起こす思想である。

まず単純に、他者と付き合ってはならない。しかし、他者と付き合うかどうかが非交際の本質ではない。その本質は無明、我想、そして他者と付き合おうとする動機である欲望と恐怖があるかどうかである。故に欲望と恐怖(連帯と孤立などへの関心)を止滅するために、苦悩の起こる原因と結果の関係性を明確に理解し、錯覚を錯覚として明確に理解することである。

まず、交際は、無明を根因とし、我想を原因として起こることを、明確に理解することである。次に、連帯や孤立などへの関心こそが、欲望と恐怖への束縛を反復させ、交際を永続させる要因なのであり、連帯や孤立などへの無関心こそが、欲望と恐怖からの解放であり、交際を終焉させる方法であることを、明確に理解することである。直接的には、他者と付き合おうとする要因となる無自覚﹅﹅﹅的な相対的観念を具体的に洞察し、明確に自覚﹅﹅することである。

それは、連帯と孤立に関心を持つことが、苦悩と無知を際限なく繰り返すだけであることを、明確に理解することによる確信である。

独立

連帯と孤立に無関心と成り、『自・他』という名前と形体の区別を越え、相対的な観念世界から自由になり、絶対的な平等性を実現し、非交際を達成した者に備わる心の在り様を示す名前が『独立』である。それは、真の自己へと至った者のみに備わる自然な在り方である。

相互の相対的依存関係の上に成り立つ名前と形体による観念世界において、あらゆるものは連なることと離れることの中にある。この関係性を超えて非交際を徹底しようとすることは、自己が関係性の世界にいると錯覚している限り、不可能であり、自己欺瞞であり、自己矛盾に苦しむだけである。

この関係性を超えて非交際を徹底するには、自己が関係性の世界にはいないという事実を自覚しなければならない。


『連帯・孤立』という名前と形体による区別を超え、欲望と恐怖から自由になるそのとき初めて、非交際は完全なものとなる。



非交際


独立でありなさい

隠者の様に、誰一人として会わず、孤独でありなさいという話ではない
独立であるとは、連帯性、孤立性から離れた心の在り様を示している
『連帯・孤立』という名前と色形による区別を越えて平等である事である

独立である時、愛が、愛のみを絶え間なく交わる

己の元へと来る、連帯と孤立の区別を越えて、独立でありなさい
己の元から去る、連帯と孤立の区別を越えて、独立でありなさい
今、そうである、あるがままの状況を越えて、独立でありなさい


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原因と結果を理解しなさい

個人的『私』は常に、連帯する事など、楽しむ事を求めている
個人的『私』は常に、孤立する事など、苦しむ事を恐れている

それが個人的『私』の本性である

個人的『私』が楽しむ欲望から、他者と付き合おうとする心の反応は起こる
個人的『私」が苦しむ恐怖から、他者と付き合おうとする心の反応は起こる

即ち、すべての交際は、個人的『私』の欲望と恐怖から起こる



限定された自己が誤りである

欲望と恐怖に支配された自己愛こそが、交際の原因である
臆病な己を守ろうとする自己愛こそが、交際の動機である

故に、守るべき『私』がいる限り、交際に終わりは無い

無論、自己を愛する事は、まったく当然の事である
故に、自己を愛する事が、誤った事なのではない。

ただ、限定された個人的自己のみを愛する事が、誤り-苦痛-である
欲望と恐怖に支配された限定的な自己愛こそが、誤り-交際-である



平等でありなさい

名前と色形により、限定的『私』を定義する事こそが、交際の根因である
『自分・他者』という名前と色形による区別こそが、誤り-交際-である
故に、『私』の定義付を止める事によってのみ、偏愛-交際-は終焉する

平等である時、全体的【私】としての自己愛がある

定義付による、自分と他者の限定を超えて、平等でありなさい
定義付による、自分と他者の区別を超えて、平等でありなさい
定義付による、自分と他者の偏愛を超えて、平等でありなさい



努力を手放しなさい

満たされた連帯欲は、連帯へのより多くの欲望を生む事と成る
より多くの連帯欲は、孤立へのより多くの恐怖を生む事と成る

連帯を欲し求めようとする努力に、果ては無い事を見破りなさい
孤立を恐れ避けようとする努力に、果ては無い事を見破りなさい

連帯と孤立は、コインの表裏の様に、分ける事の出来ない関係にある
連帯されるものは、必ず、孤立されるものである

連帯を求め孤立を避ける努力は、不毛であると自覚しなさい
その明らかな不毛さを自覚し、それらの努力を手放しなさい



自由でありなさい

この在り方によってのみ、幸福の扉が開く事を、覚えておきなさい
交際によっては、何も解決しない事を、良くよく覚えておきなさい

真の解決-幸福-とは、欲望と恐怖の支配下から自由に成る事である

欲望と恐怖に支配された心を、制御しようと闘う必要は無い
欲望と恐怖の対象は、単なる『名前と色形』であると自覚しなさい
それらは単なる『空想』であると観て、無視しなさい

連帯と孤立に無関心と成り、欲望と恐怖の支配下から自由でありなさい



そして、元々ある幸福へ戻りなさい



非交際の戒行とは、欲望と恐怖という自身を苦しめている原因への対処法であり、連帯を欲し求めることと孤立を怖れ避けることに対する離欲無関心へと導くための手引と言えるでしょう。


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