【私】について1

心と身体を一から習う

人はきっと【私】とはいったい何者であるのか? と太古の昔から思い巡らし、探求してきたのではないでしょうか。この問いこそは、人の最も根源的な欲求なのでは? ではでは、この宇宙の深遠なる世界、【私】探しの旅へ参りましょう(^_^)v

そうじゃ。「【私】とは何者か?」は最初の問いであり、最後の問いであり、根源的な問いなのじゃ。あらゆる欲望、恐怖、苦しみは「【私】を知らぬ」という無知・無明から起こるのじゃ。


そして【私】探しの旅こそが、ヨガなのじゃ。

♨ 2020/02/26

レッテル貼りによる自己認識(・_・)

私について説明してみますと、

  • 私は尾山広平という名前です。
  • 私は愛知県に住んでいます。
  • 私はヨガ指導員をしています。
  • 私の身長は180cmほどで、体重は58kgほどです。
  • 私はめちゃんこ優しいです。

これらの名前・住所・職業・体格・性格……などの条件が【私】なのでしょうか? これらの条件は、思考君が貼り付けていった〈レッテル〉といえるでしょう。
思考君は何枚ものレッテルを自身に貼ることにより、「自分」を作り上げていきます。自分で自分を決め付けていき、自分像を強固にしていくのです。

思考君は、自分で貼り付けていったレッテルの集積により自身を認識しているということです。逆に、思考君はレッテルを通してしか「自己存在」「自己同一性」というアイデンティティを認識することができないということでしょう。

すべての存在物事は、他との関係性の中で成り立っている

―― 縁起 

アイデンティティも、他(自分の周りのあらゆる環境)との関係性の中にこそ成り立ち存在している成り立っているのです。アイデンティティとは、他とのかかわり合いがどうであるのかの認識です。

つまり、レッテルとは自他の関係性を認識するためのものなのです。

思考君にとっては自他の関係性(レッテル)こそが【私】ということです(・_・!

アイデンティティの拠り所(^_^)

思考君は自分自身が作り上げた自分像にしがみ付きたがります。これらはレッテルですから常に貼り替えをすることができるのですが、一度貼ったレッテルをはがしたがらないということです。
なぜならレッテルをはがすことは、自分が自分でなくなることを意味するからです。

それは正に思考君にとっては死ぬことと同じことといえるでしょう。

思考君のアイデンティティの拠り所が主にどこにあるかにより、しがみ付き方は変わってきます。これが変わってしまっては【私】が【私】でなくなるレッテル。そこに、アイデンティティの拠り所があります。
それが名前にあるなら〈名前レッテル〉が変わるのを恐れます。住んでいる場所にあるなら〈住所レッテル〉が変わるのを恐れます。ほかからの評価にあるなら〈ほかからの評価レッテル〉が変わるのを恐れます。

体格や性格は、各人各様や十人十色といわれる、その個人オリジナルの性質である個性を表しています。

背が高い、目が大きい、細身、筋肉質、優しい、怒りっぽい、静か、几帳面、お調子者……

この〈個性レッテル〉が変わるのを恐れている思考君は多いことでしょう。しかし別の身体君になっても、つまり〈体格レッテル〉を全部貼り替えても、まだ【私】は【私】だといえるでしょう。

ではでは……別の思考君になったら?

もちろん誰の思考君であっても「【私】が【私】ではなくなって、【私】がいなくなって消えてしまう」と恐れていることでしょう(・_・!

それだけは変えられない;・_・!!

当然のことながら、アイデンティティの最終的な拠り所は、思考君そのものの働きである〈性格レッテル〉なのです。

  • ああ言われたらこう言い返すのが【私】。そんなことをするのは【私】ではない。と認識しているのです。
  • 10年ぶりに会った人の外見が変わっているだけでは、変わったなからとは思うものの、その人自身が変わったとは認識しません。しかし内面である性格が変わっていたら、この人は変わったな〜と認識するのです。
  • A君、B君、C君と3人いたとして、もしA君とB君の思考君が入れ替わったら、C君の思考君は、B君の身体君に入っているのがA君だ、と認識するのです。

思考君にとって性格が変わるとは、正に新しい自分に生まれ変わることなのです(☆_☆)

記憶の中に存在する(・_・!

また、もしも大量の記憶が消えてしまったら……、

「ここはどこ(?_?)私は誰(?_?)

と思考君には、自分が誰なの分からなくなるでしょう。記憶が消えることとは思考君にとって自分が消えることであり、自分を認識することができなくなるのです。

記憶にこそ、過去のレッテルの集積である自分が存在する成り立っているのです(・_・!

そうじゃ。記憶によって「自分」は形作られておる。そして「記憶」とは現れては消える空虚な情報であり、存在性を有してはおらぬのじゃ。


だからこそ誰も、「記憶が存在している」とは言わぬのじゃ。同じ様に誰も、「自分が存在している」とは言えぬはずではないじゃろうか?


じゃが実際の体験ではどうじゃろう? 誰もが疑い様も無く、「私は存在している」と宣言出来るのじゃ。この様な不一致が何故に起こるのじゃろう?


それは単純に、本来の【自己存在】が、記憶に基づくレッテルではない、という真実を指し示しておるのじゃ。

♨ 2020/02/26

思考君にとって【私】である性格。それはいったいどのように形作られていくのでしょうか(?_?)

旅は続く……☆


次のレッスン

レッスン16

参考になりそうな記事

教説1
教説7
教説15