自愛について2

心と身体を一から習う

人は過去の経験に基づき、今ある世界を認識しているので、好き嫌いも過去の経験に基づき、今を認識することで湧き上がる感情ということです。いったいどんな経験から、自分に優しくするということができなくなるのでしょう(?_?)

( -_- )評価基準表(・_・)

ある対象と関係を持ったとき、

いい気分になった経験がある場合

→ その対象を「好き(^_^)」という。

悪い気分になった経験がある場合

→ その対象を「嫌い( -_- )」という。

たとえば、子供の頃に先生や親から褒められた・または叱られたという経験をすると、根っこにある誰かに好かれたい、関心を持たれたい、相手にされたい……愛されたい。つまり「安心したい」という欲により……

褒められる

→ 愛されている → 安心 → いい気分 → 好き

叱られる

→ 愛されていない → 不安 → 悪い気分 → 嫌い

この場合には、〔褒める人→好き=叱る人→嫌い〕という評価をする基準を設定することになるのです。
人は、こうした経験の積み重ねにより、色々な評価の基準を設定し、評価基準表なるものを作成していくのです。

そしてそして、すべての対象に、この評価基準表を用いることになるのです(・_・!!

私を嫌いになるのは (*_*?

この評価基準〔褒める人→好き=叱る人→嫌い〕を持った人は、他人からの評価にもこれを当てはめ、そしてその他人からの評価を自分にも当てはめているのです。

つまり、

  1. 〔褒める人→好き=叱る人→嫌い〕
  2. 〔褒められる人→好かれる=叱られる人→嫌われる〕
  3. 〔褒められる自分→好き=叱られる自分→嫌い〕

という3つの評価を同時にしているのです。

ですから、この評価基準表を持っていて、それを満たしていない人、つまり叱られてばかりで褒められることがない人の場合、こんな自分では好かれていない、自分には好かれる価値などないと評価し、それは同時に、こんな自分では自分を好きになってはいけない、という評価でもあるのです。

私は、私が嫌いになり、自分に優しく、自分を大切にできなくなるのです (*_*)

思考君を止める ― 欲から自由になるの法

その8 ― 愛するの術

自分の思い通りにしたいという「欲」を起こす物事を愛することで、思考君を止めることです。

ある対象を愛するとは、その対象のそのまま、ありのままを受け入れ、認め、許すということでしょう。受け入れ、認め、許すと思考君は何も解決する必要はないので止まります。愛するとその時点で、思考君はいなくなるのです。

評価基準をリセットする

愛するとは、こうだから好き、こうだから嫌いという条件に左右されない、どうであっても受け入れる、認める、許す、ということであり、評価することも、その基準もない状態です。過去に作り出した評価基準をリセットする方法といえます。

評価基準が消えると、好きも嫌いも、当然消えます。

( ・_・)自 と 他(・_・ )

この評価基準表は自分が自と他の両方に対して用いてきたツールですから、自分の何かを愛するにせよ、他の何かを愛するにせよ、その愛した何かに対する評価基準は消去されていくのです。
つまり自分を愛することは、他を愛することで、他を愛することは、自分を愛することとイコールなのです。
自分を大切にしない人が、他人を心から大切にすることはできないのです。また、誰かのある性質、行為を許すことができないということは、とどのつまり自分の中にある同じ性質、行為を許す事ができていないのです(・_・!

自も他も自分の脳の中の世界である「私の状況思考君の状況」の中にあるのです(・_・!

自分を愛する……すべては「愛」に(^_^)

あの人と話すとなぜイライラするんだろう? タンスの角に小指をぶつけるとなぜ腹が立つんだろう? あそこに行くとなぜ気分が悪くなるんだろう? 自分はあの人にどうしてもらいたいのだろう? 何が不満なんだろう? どんな欲を持っているのだろう?

などと、分析をする必要はないのです。

そして、あの人のありのままを受け入れよう、そのままを認めよう、すべてを許そう。

などと、他を受け入れる必要もないのです。

ただただそのときそのときに自分に湧き上がる感情を、受け入れるだけでいい……。
気分をよくしようとコントロールも抑え付けもせず、その事実を、今この瞬間、瞬間のそのままの自分、ありのままの自分を、存在そのものを、100パーセント受け入れ、認め、許す。

そして……(^_^)

それが「自分を愛する」ということです(^_^)

自分を愛するとは、自分を観察する、意識している、「今・ここ」に在る、ということ(^_^)
それは自分が何よりも求めているものを、自分に与えるということ(^_^)

そうじゃ。それは「受け入れる」や「拒む」などの行為を超えて、思考を観ている態度であり、意識として在る態度なのじゃ。


その様に思考を平静平等に見守る態度とはそのまま、「欲望(好き)」と「恐怖(嫌い)」に向かう思考に対して無関心である態度に他ならぬ事が了解されるじゃろう。


結局の所、自身が何よりも求めておる愛とは、「心(自我、思考、外側、世界)」ではなく、「私(真我、意識、内側、実在)」へ関心を向ける事でしか達成されぬものなのじゃ。

♨ 2020/03/05

「そのままでいいよ(^_^)」って言ってあげましょう。
「私は、私のままでいい(^_^)」って宣言しましょう。

幾ら言葉で「そのままでいい、私は私のままでいい」と言ったところで、もしも心が、心自体(自我、思考、外側、世界)に関心を持っておるならば、それは虚言に過ぎぬのじゃ。


何故なら、関心とは「欲望と恐怖(好きと嫌い)」に他ならぬからなのじゃ。


ただ見守る……

♨ 2020/03/05


―― その度に、世界は 愛 に満たされていく ――


やがて……

すべては「愛」だったのか!!
って、至高の喜びを思い出す…………\(^_^)/


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