ヨガの八支則(P131〜138)

尺度

♨ まんぐーす爺さんの教説から習う

尺度を捨てるが良いのじゃ。尺度とは物事を評価する基準の事を示しておるのじゃ。例えば160cm以下は背が低く、170cm以上は背が高いだとか、50kg以下は痩せており、60kg以上は太っておるだとか、20歳以下は若く、30歳以上は若くないだとか、80点以上は賢く優れており、60点以下は愚かで劣っておるだとか、寄付する者は正しき善人であり、賭け事ギャンブルする者は誤った悪人であるなどと、自分勝手に物事の価値を判断する基準の事じゃ。

ヨガへの道を進みゆく者は、その様な尺度を放棄してゆくのじゃ。

♨ 非比較:比べてはならぬ

背が低い者も高い者も、痩せた者も太った者も、若い者も年老いた者も、優れた者も劣った者も、善い者も悪い者も、正しい者も誤った者も、世界には存在せぬのじゃ。この様な相対二元性とは、全て記憶との比較により成り立つ幻想であり、それは今ここには存在せぬ﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅という事なのじゃ。

尺度を使用するとは、記憶との比較を通して目の前の物事を見ておる故に、そこには『自と他』を基盤とし『高と低、強と弱、太と痩、老と若、男と女、明と暗、善と悪、愛と憎、正と誤、優と劣、清と濁、美と醜、好と悪、称と罵、敬と蔑』などの二元性が起こる。これらの相対的観念に覆われれば覆われておる程に、今目の前にある事実は隠され、見えなくなるものなのじゃ。

ヨガへの道を進みゆく者は、尺度を捨て去り、比較を通さず、あるがままの事実を見てゆくのじゃ。

♨︎ 勝負① 自己同一性の確保

己と他者や、己と己の過去などとを比較する事により、「私は誰で、何者なのか」を常に判断し続け、今の己の立ち位置を知る手掛かりとなっておる。己は何時の時も! 己の同一性を保持しようと必死なのじゃ。それは終わる事の無い自己同一性確保勝負ゲームと言えるじゃろう。

尺度を捨て去り、比較を通して自己を判断する事を止めてゆくのじゃ。

♨︎ 勝負② 自己優位性の確保

己と他者や、己と己の過去などとを比較する事により、「私は優れている」などと判断する者は、その優越感、他者へのさげすみを保とうと、必死に頑張り続けるじゃろう。逆に「私は劣っている」などと判断する者は、その劣等感、他者へのねたみから逃れようと、必死に頑張り続けるじゃろう。或いは、己が劣っておる事それ自体に優位性を与え、更に劣った己を演じようとさえするじゃろう。己は何としても! 己の優位性を保持しようと必死なのじゃ。それは終わる事の無い自己優位性確保勝負ゲームと言えるじゃろう。

尺度を捨て去り、比較を通して優劣を判断する事を止めてゆくのじゃ。

♨︎ 非評価:裁いてはならぬ

キリストは「裁いてはなりません。裁いたなら、あなた方も裁かれるでしょう。あなたに他人が裁かれるのと同じように、あなたが裁かれるでしょう。あなたが使う尺度に、あなたは測られるのです」などと説いたと伝わる。それはまったくその通りである。他者を評価する者だけが、評価される事を恐れ喜ぶ。裁かれたくない者は、誰も何も、裁かなければ良い。それだけの事なのじゃ。例え閻魔大王とて、誰一人として裁かぬその者を、裁く事など決して出来ぬのじゃ。

未熟な者は自身も気付かぬ内に、あらゆる人や物事を次々と裁いておるものじゃ。「誰も裁いてはいけないと言ったって、人を傷つけることは悪いことだし、嘘をつくなんて悪い奴だ。人の物を盗むなんて、人間失格だ。人と付き合うことはもちろん、決して悪いことじゃない。自分の物を持つことだって、何も悪いことではないはずだ」などと。分かっておるね? これらの評価は個人的な尺度に過ぎぬ事を。

ここでキリストは「誰一人、何一つ、裁いてはなりません。すべてを許しなさい」などと示しておるのじゃ。無論、例え多くの人を虐殺する者であろうと、核爆弾を製造する国であろうと、礼儀知らずの者であろうと、多額の寄付をする者であろうと、福祉制度の充実した国であろうと、奉仕活動ボランティアに勤しむ者であろうとじゃ。その言葉通り、すべて﹅﹅﹅を許すのじゃ。何処にも悪い者はらぬのじゃ。ただ、まったく個人的な尺度を使って善悪を評価する者がるだけであり、その尺度によって己自身を苦しめ続ける愚かで哀れな者がるだけなのじゃ。

第一、おぬしは自身の事も、彼等の事も、表面的な極々一部分しか認識してはおらぬのじゃ。早急に判断してはいけない。傲慢に成ってはいけない。愚かな自身と彼等を共に慈しみなさい、哀れみなさい。互いの成長を望み、その成長を喜びなさい。じゃが、彼らが成長するかどうかは放っておきなさい。ただ、己が成長するのを見守りなさい。そうして、自身と彼等を責める心を捨て去りなさい。これが『慈悲喜捨じひきしゃ』と呼ばれる聖なる無関心の教えなのじゃ。

尺度を捨て去り、一切の言い訳をせず、裁く事を止めてゆくのじゃ。

♨︎ 勝負③ 自己正当性の確保

己と他者や、己と己の過去などとを比較する事により、「私は正しい」と判断する者は、その自尊心、他者への責めを保持しようと、必死に頑張り続けるじゃろう。逆に「私は悪い」と判断する者は、その罪悪感、他者への後ろめたさから逃れようと、必死に頑張り続けるじゃろう。或いは、悪い事それ自体に正当性を与え、更に悪い己を演じようとさえするじゃろう。己は何としても! 己の正当性を保持しようと必死なのじゃ。それは終わる事の無い自己正当性確保勝負ゲームと言えるじゃろう。

尺度を捨て去り、比較を通して善悪を判断する事を止めてゆくのじゃ。

♨︎ 唯一の罪

実に、世界とは個人的である。それは個人的観念が投影された精神的産物であり、それは誰とも共有されてはおらぬのじゃ。故に、各個人がその個人の世界の唯一の創造者であり、裁判官と言えるのじゃ。じゃから安心しなさい。何も心配する必要など無い。世界には元々何の罪も無く、誰一人として罪人はおらぬ。ただ、おぬし個人が、おぬし個人の世界に『罪』を形作り、それからその『罪』を排除するために審判ジャッジするのじゃ。おぬしは何と滑稽な善人である事か!

おぬしが世界に善と悪を思想する故に、世界は善人と悪人とに別かれ、世界の平和は覆い隠され、そしておぬしは世界の犠牲者と成る。おぬしが誰かを裁いたところで、おぬしの世界から『悪』が無くなる事も、おぬしの世界に平和が訪れる事も、永遠に無い。世界を救うとは、個人を救うとは、本当にはどういう事じゃろうか? 解っておるね? 世界から悪を葬り去り、そこに平和をもたらすには、その個人が使用しておる『善悪』を測る尺度を、その個人自身が捨てるより他無いのじゃ。悪を作る事を止め、裁く事を止め、善人である事を止めなさい。

結局のところ、おぬしが世界に『自他』を思想する故に、世界は『自』と『他』に別れ、世界の平和は覆い隠され、おぬしは世界の犠牲者と成る。個人をその安住の地から疎外する根因とは、別れておらぬものを別け、己でないものを己であると錯覚する事、個人が己自身を見誤る事、それなのじゃ。良いかな、己を見誤る事、それが、おぬしの唯一の罪 ―― 誤り ―― と覚えておきなさい。そして、この罪を無くす事が唯一、おぬしの世界を、そしておぬし自身を、真に救済する方法である事を覚えておきなさい。

♨︎ 非分別:分けてはならぬ

要するに、他者を裁くかどうかが問題の本質ではない。その本質は『自他』に始まり『善悪』『正誤』『愛憎』などの観念が有るかどうかであり、世界を分別する事であり、またその分別に関心を持つかどうかなのじゃ。故にキリストは、この観念を放棄させるために、「世界のすべては正善であると信じ、何一つ裁かず、すべてを愛しなさい」などと説いたのじゃ。この観念を放棄するためには次の様にも言える。「世界のすべては罪悪であると信じ、何一つ許さず、すべてを憎みなさい」などと。

解っておるかな? そのどちらにしてもその言葉通りすべて﹅﹅﹅である事が要点なのじゃ。善と悪とは<ヒトツ>であり、同時に生じ、同時に滅するものなのじゃ。あらゆる審判とは、個人が﹅﹅﹅、或る物事は正しく善であると観て愛し、或る物事は誤った悪であると観て憎むその身勝手な価値観から起こる。故にすべては正しく善であると観てすべてを愛するか、或いはすべては誤った悪であると観て何一つ愛さないならば、その価値尺度は放棄され、すべての憎しみは消滅するのじゃ。そして、分別を超えたそこにこそ、真の愛は在るじゃろう。それは離欲無関心の達成に他ならぬのじゃ。

同じ様に、楽しむ事が問題なのではない。求める事が問題なのではない。問題はおぬしが、或る物事は楽しみ求めるが、或る物事は苦しみ避けるというその身勝手さから起こる。すべてを楽しみ求めるか、或いは何も楽しまず求めないならば、すべての欲望、恐怖は放棄され、すべての苦しみは消滅するのじゃ。そうじゃ、それは離欲無関心の達成なのじゃ。そして、分別を超えたそこにこそ、真の幸福は在るじゃろう。

じゃから良いかね、背の高い者や強い者は好み、背の低い者や弱い者は嫌い、痩せた者は清く美しいと称え、太った者は汚く醜いと罵り、賢い者や老いた者は優れていると敬い、愚かな者や若い者は劣っていると蔑む…… 等といった、あらゆる比較分別による評価に無関心となり、すべてを平等に観て、あらゆる身勝手な価値観を取り除いてゆくが良い。そして、最後には自他の分別をも取り除くが良いのじゃ。

♨︎ 勝負④ 自己個人性の確保

そもそも個人それ自体が『自と他』に分別されたその片割れであり、個人はその分別によって起こる個人性を保つために、あらゆる物事を分別する。即ち、分別する事は個人の本性そのものと言えるのじゃ。個人は何時の時も、何としても! 己の個人性を保持しようと必死なのじゃ。それは終わる事の無い自己個人性確保勝負ゲームと言えるじゃろう。

尺度を捨て去り、分別を通して自己を判断する事を止めてゆくのじゃ。

♨︎ 観照:今ここへの関心

今一度言うておくが、それはとても単純に言葉通り、すべて﹅﹅﹅に当て嵌める事なのじゃ。例外を作ってはいけない。即ち、尺度を捨てるとは、比較する事、評価する事、分別する事は良くない事だから﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅と、それを止めようとする事ではないのじゃ。確かに「比べてはならぬ! 裁いてはならぬ! 別けてはならぬ! 誰もさげすんだりねたんだりしてはならぬ!」などと言うておるのじゃが、比べたり裁いたり別けたりするのも、蔑んだり嫉んだりするのもまた善い事でも悪い事でも、正しい事でも誤った事でもないのじゃ。

例え国家が犯罪者を裁いておろうと、おぬしは国家も犯罪者もその両方を別け隔てる事無く、善し、として許すのじゃ。無論。それは己にも当て嵌まる。例えおぬしが国家や犯罪者を裁く事が起こるとしても、その己さえも裁いてはならぬのじゃ。ただ、起こった事に気付いたならそれで仕舞じゃ。それ以上でもそれ以下でもない。それだけじゃ。それだけの事として収めるのじゃ。その様な過ぎ去った過去は放っておき、今ここへと関心を向けておくが良いのじゃ。

そうじゃ、それはおぬしの本性であり、ヨガ行者の根本的態度である観照の姿勢じゃ。対象から離れた高見から、ただ、観ておくというこの姿勢こそ、平等心を育み、事実を見抜く力を培う態度なのじゃ。そうじゃ、見守る事で心は成長するのじゃ。そしてまた、おぬしが離れて在る時、物事は物事それ自体で解決されてゆく事を、おぬしはただ観るじゃろう。じゃから安心しなさい。何も心配する必要など無い。おぬしが自身を世界の中に入り込んだ犠牲者に仕立てる故に、世界に犯罪者と犠牲者が現れて見えるのじゃ。世界から離れなさい。

ハタ・ヨガにおいても、それは練習されておるはずじゃ。体位を取る時、姿勢を調える時、呼吸を調える時、常に今の心身に関心を向け、感覚的対象を観察しておるじゃろう? 今現在に関心を向け、締め付けたい様に締め付けながら行っておるじゃろう? まさかまさか、指導者や、他の生徒や、過去の己などとの比較から判断される『形体かたち』に関心を向けて取り組んではおるまい? その様な比較が自身を惨めに感じさせ、身体を痛める口火であると気付きなさい。今現在に適切に合わせる姿勢は、心身に無理を掛けぬための基本的態度であり、効果的な修練とするための第一歩なのじゃ。

今ここへと関心が向く程に、苦悩とは比較分別の内に生まれる幻想である事が見抜かれてゆくじゃろう。比較分別により起こる様々な苦悩から解放され、比較分別により起こる個人からもまた解放されてゆくじゃろう。そして、今ここには何の苦悩も無いという単純な事実に辿り着くじゃろう。

♨︎ 事実:単純で当たり前の事

そう、事実とは単純そのもの、単一そのものじゃ。一見多種多様に見える色形の世界は、実の処、隔たる事無く単一なのじゃ。すべては<ヒトツ>、<ヒトツ>はすべてなのじゃ。より正確に言うならば、<ヒトツ>は<ヒトツ>であり、それは色形の集合体ではない﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅故に、「すべて」とは表現出来ぬものなのじゃ。一見実体としての個別性を備えておる様に見える色形とは、実の処、実体としての個別性は無いのじゃ。

それぞれの色形は単に<ヒトツ>の異なる相の現れであり、それは『色即是空、空即是色』などとも表現されておる。一見『色』として見えるおぬしは『空』なのじゃ。おぬしの本性は、決してわかつ事の出来ぬ<ヒトツ>そのものなのじゃ。結局のところ<ヒトツ>で別(わか)つ事の出来ないものに、個人性を思想する事が問題なのじゃ。個人はらん。『事』はただ起こる。自分や他者などに個人性を想像する習慣を止めるのじゃ。それだけじゃ、それだけの事なのじゃ。

愚者とはまるで、己が眼鏡を掛けておる事を知らずに眼鏡を探す者の様じゃ。賢者は、己が初めから眼鏡を掛けておる事を知っておる者と言える。要するに、愚者とは当たり前の事実を知らぬ者であり、賢者とは当たり前の事実を知る者なのじゃ。さて、眼鏡を掛けておるにも関わらず、掛けておらぬと勘違いしておるのは何じゃ? そうじゃ、心じゃ。自我じゃ。比較し、分別し、実体の無い物事に、実体が有ると想像する『私』によって、当たり前の事実は隠される。

じゃが、心にとって隠れておるだけであり、心の本性が無知なのであり、初めから眼鏡を掛けておる事実に変わりは無い。そう、心とは過去の記憶と照らし合わせる事によってのみ、物事を認識、判断する事が出来るのじゃ。即ち、心とは過去なのじゃ。思想とは常に過去を見ておるのじゃ。心は記憶に依存しておる故に、今、過去を想い出す事も、今、未来も思い描く事も、そして今、現在を認識する事さえも、それらはすべて過去の出来事なのじゃ。単純に「今」のみが今であり、「今」+「思想」、それは過去なのじゃ。

故に心には今ここにある事実を知るなど出来ようはずもない。『私』には今ここにある事実を知るなど出来ようはずもない。事実を知るには、私から離れ、心から離れるより他無い。それは快楽と苦痛の両岸から離れる事であり、世界への無関心がそれじゃ。世界とは名前と色形であり、それは今ここに無い、それに実体は無い、それは心による思想、幻想じゃ。幻想に関心を向ける故に、幻想は維持され、幻想を輪廻し、果てしなく苦しみ続ける。幻想を無視しなさい、幻想は跡形も無く消え去るじゃろう。

じゃから繰り返し言おう。あらゆる思想を放棄し、思想から離れて観ておきなさい。心がおぬしなのではなく、心を観る者がおぬしであり、おぬしは何もしておらぬ事を片時も忘れてはいけない。おぬしは初めから眼鏡を掛けておる。じゃから良いかね、騒がしく眼鏡を探す事はもう止めなさい。安心して静かに成りなさい。おぬしは初めからおぬしであるから、おぬしはおぬしとして在りなさい。おぬし自身に安住しなさい。それだけじゃ、それだけの事なのじゃ。単純へと至る手段とは常に、単純なものなのじゃ。

「うそ!? 眼鏡かけてる……」

探しておる眼鏡を、己が既に掛けておる事実に気付いたなら、安らぎと喜びに混じり、自身の余りの愚かさに「あっはっはっ」と笑い出す事じゃろう。単純にして当たり前の事実が知られ、まことの安らぎと喜びに満たされるその時まで、ただ、在るが良いのじゃ。そう、「その時」とは「今」なのじゃ。そうじゃ、真実とは、今、ここで、明らかなものなのじゃ。何一つ努力する事無く、今ここに在るおぬしとして、ただ、在るが良いのじゃ。


さあ、ただ、在りなさい。


尺度


繰り返し習う

教説1