2013-12-24

審判(ジャッジ)

気ままの雑記から習う
審判(ジャッジ)

汝ら、人を裁くな。裁かれざらん為なり。

己が裁く審判(さばき)にて、己も裁かれ、

己がはかる量(はか)りにて、己も量らるべし。

(マタイ伝福音書-第七章)


聖なる夜のU  聖なる朝にR


おはようございます J J J


”審判”と申しましても、先日の記事の続きではございません。


先日、ヨガ教室の忘年会で議題にのぼりました重要案件。。。


「他者からの評価を求めてしまう」


というお話しのご紹介をさせていただきます。






(以下、会員専用ページ「忘年会(2013)」からの抜粋です。)
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<他者からの評価>

他人から認めてもらわないと、不安を感じる・・・
この心理が大きいほど、人は「存在する自信(存在価値)」が持てません。

常に他人の目を気にして……
褒められよう、
認められよう、
スゴイって言ってもらおう、

などと、思考君が大忙しで働いているから、
そこには安心感がありません。

で、


◎ 原因は?

⇒ 自分で自分を低く評価していること


◎ 解決策は?

⇒ 自分で自分を高く評価すること?


ではありません。

自分で自分を高く評価している人を、
世間では「傲慢」「プライドが高い」というのです。
そして、自分で自分を低く評価している人は、
この裏返しです。

実はどちらも「自信のなさ」の現れです。

結局、

他人に評価してもらえないと不安になり、
他人に評価してもらえると嬉しい。
自分より優れていると認識した人を見て劣等感に陥り、
自分より劣っていると認識した人を見て優越感に浸る。


その相対性の無限ループの中にいつづけます

この相対性から抜け出すことが根本を解決します。


☆ 解決

⇒ 評価することを止める


今の自分に抵抗することを止め、
そのままでいい、
このままでも何の問題もない、
と、今の自分自身を受け入れる。
そこにこそ本当の「自信」が生まれます。

で、どうするの??






評価するのは何故かと申しますと、
『自分のルール(評価基準)』
を持っているからです。
この「自らの掟」に従って、
すべてを評価(価値判断)しているからです。

「他人の価値・無価値を審判する = 自分の価値・無価値を審判する」


汝ら、人を裁くな。裁かれざらん為なり。

己が裁く審判(さばき)にて、己も裁かれ、

己がはかる量(はか)りにて、己も量らるべし。

(マタイ伝福音書-第七章)


です。

ヨガで何を目指すかといえば、
イチイチ勝手に価値判断をする

⇒ 『自分の価値観(ルール)』から解放されることともいえます。


◎ 実践

日常生活で、『自分のルール』を適用し、
他人の善悪/優劣などを評価(価値判断)していることに「気づくこと」です。
評価することを止めようとしてはいけません
評価している自分を責めてしまうからです。


「このやろう!」
「許せない!」
「なんでそんなことするの!(自分ならそんなことしないのに)」
「人間失格だ!」
「非常識!」
「うらやましい!」
「ねたましい!」


などなど……

そんな「感情」が湧いているとき、
思考君が『自分のルール』を適用しています。
評価してない振りをしてもダメですよ。
評価は自動的に「必ず」しているんですから^^

思考君の自動反応に気づくこと。
それだけでいいのです。


自分がわざわざ閻魔大王(裁判長)になって、
他人を裁くという面倒な仕事をする必要はありません。

自分で自分を裁いているように、他人を裁くのは、他人自身だからです。

他人を裁いたとき、
自分を裁いていることを「理解」すれば、
他人を裁いたことに気づきやすい。
自動反応もやがては止まります。。。


他人と自分を比べることはOKです。
そこに善悪・優劣の判断がなければ。
違いを認めるためであれば。

お互いの違いを認めるとは、『自分のルール』を使用していないことですね。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
(抜粋終了)






理解しがたい?聖書の言葉も、


なんてことはありません。


心の仕組みのお話ですね。


ジャッジのない、すてきな聖夜をお過ごしください♡


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