2020-07-02

2020-06-16

諸行無常:すべては存在していない

諸行無常:すべては存在していない

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ。

『平家物語』第一巻「祇園精舎」より

現代語訳

(ブッダの弟子たちが修行していたという)アナータピンディカ寺院の鐘の音は、(ブッダが説いたという)「諸行無常」の響きがある。(ブッダが傍で入滅したという)サラソウジュの樹に咲く花の色は、「盛者必衰」の真理を現している。奢っている者も長く続くことなく、(それは)ただ春の夜にみる(覚めやすい)夢のようなものである。屈強な者も最後には滅びてしまう、(それは)まったくもって風の前のチリと同じである。

ご存知、『平家物語』の冒頭です。内容はまったくもって知らないのですが、この冒頭から結論するに、平家の繁栄、衰退、滅亡といったところなのでしょう。その根底には、この世の「儚さ」というテーマがありそうです。

「無駄話」はブッダの説いた悪行の一つですので、これぐらいにしておきましょう。


1.諸行とは?

さて、『諸行』のパーリ原語は『サッベ サンカーラ(sabbe saṅkhārā)』です。『サッベ』は仏教では「諸、一切」などと訳されていますが「すべて」を示しています。『サンカーラ』は仏教では「行(ぎょう)」、現代では「潜在印象」などとも訳されていますが、「記憶に基づいて形成される心意(観念・意志・行為)、あるいは記憶に基づいて形成される心意(観念・意志・行為)を起こす原因」を示しています。

世界の見え方

この世界は、「眼」「耳」「鼻」「舌」「体」という5つの感覚器官と、「心」という思惟器官とによって、それぞれの器官がそれぞれの対象に触れた刹那、心によってそれぞれ「色」「音」「香」「味」「体感」「想念」として感受され、次には心によって、それそれが記憶と照合されて「観念」として想起され、最後には心によって、その「観念」が認識されることで形作られています。

つまり、人が認識している世界とは、記憶を基にして形作られた「観念の世界」ということです。そしてこの観念は、名前(言葉)と色形(印象)とから成り立っています。そしてこの記憶に基づく認識によって、人は「あるがままの世界」を認識することができず、観念を投影した「個人的な世界」を認識することしかできないのです。

世界の見え方はこちら

雑記69

諸行の止滅

そしてまたこの記憶に基づいて形成される心の作用(サンカーラ)によって、人を苦しめる原因である ①快楽を愛する心意「貪愛」 ②苦痛を憎む心意「憎悪」 ③個人的な見解「誤謬」という3つの煩悩も起こります。つまり、この記憶に基づいて形成される心の作用の種子を滅尽すること。それが仏教、あるいはヨガの目的といえる訳です。

『ヨガ・スートラ』第1章51節

最後に、この行も止滅したとき、一切(の心の作用)が止滅するから、無種子三昧が出現する。

これは『ヨガ・スートラ』第1章の結びの節句であり、ヨガの最終的な目的である「心の作用の止滅(無種子三昧)」を説いているものです。ようするに「諸行」を止滅することを詠っています。

『ダンマパダ』第25章381節

覚者の教えを信じ、歓喜に満ちた修行者は、行が止滅した安らぎ、寂静の境地に達するであろう。


『ダンマパダ』第26章383節

(快楽への)流れを努力して断ち切り、聖職者よ、愛欲を除去せよ。行の滅尽を知って、聖職者よ、形成されざるものであれ。

これはブッダが、「行を止滅したのなら、涅槃寂静に至る」ということを説いた句です。

『ダンマパダ』第11章153節

(私は、)『家』の作者を探し求めていたが、見つけ出すことなく無数に生死の輪廻を流転した。繰り返される人生は苦しみである。


『ダンマパダ』第11章154節

『家』の作者よ! お前は(正体を)見られた! 再び『家』を作ることはできないであろう! (『家』を形成していた)すべての梁は解体され、お前はその形成力を失った! 形成力を失った心は、ついに欲望を根絶するに至った。

これはブッダ本人が「諸行」を止滅することによって欲望(渇愛)を根絶したときのことを詠っています。

前回の記事『ダンマパダ:真理の言葉』では、『家』を『私』として訳しましたが、『世界』と解釈してもよいでしょう。とにかく「諸行」が滅び、「自我」と「自我が認識する世界」が形成されなくなったという訳です。

2.無常とは?

続きまして、『無常』のパーリ原語は『アニッチャ(aniccā)』です。『ア』は否定を示し、『ニッチャ』は仏教では「常」などと訳されていますが「常在、不変、不生不滅」などを示しています。ですから『アニッチャ』は、「非常在、変化、生滅」などを示しています。

泡と蜃気楼

『ダンマパダ』第4章46節

この身体は、(現れてはすぐに消え去る)泡のようであると知り、(実際には存在しない)蜃気楼のような性質であると覚った者は、悪魔の花の矢(である3つの世界での生存)を断ち、死王には見えないところへ行くであろう。


『ダンマパダ』第13章170節

(この世界は、現れてはすぐに消え去る)泡のようであると見よ。(実際には存在していない)蜃気楼のようであると見よ。このように世界を観察する者を、死王は見ることができない。

これはブッダが「この世界を「泡や蜃気楼」のようなものであることを観察しなさい、それを知ったなら涅槃へ至る」ということを説いた句です。

ですからこの句は、平家物語の冒頭のように「すべてのものは移り変わる儚いものだ」などという悠長な変化を観察しなさいと説いている訳ではなく、「現れた刹那、消える」ことを観察しなさいと説いているのです。
※ ただし、すべては儚いものであるとする見解をもって暮らすことは、すべてへの執着を離れ、苦しみを除去することにつながります。

そしてまたブッダはここで、この世界を「蜃気楼」のようなものであると観察しなさいと説いています。つまり「実際には存在していない」ことを観察しなさいと説いているのです。

存在とは?

現れた刹那、消え去る「ソレ」を、「存在」と呼ぶことは空論です。もしも「ソレ」が刻々と変化するのであれば、「ソレ」は同一の「ソレ」として存在性を有することはありません。つまり「存在」と呼べるものは、決して変化しない【常在】したものだけのはずです。

別の角度から表現するならば、

独立していない「ソレ」を、「存在」と呼ぶことは空論です。もしも「ソレ」が「ソレ以外」と結びつき変化し合っているのであれば、「ソレ」は独立した「ソレ」として存在性を有することはありません。つまり「存在」と呼べるものは、何とも無関係に【独立】したものだけのはずです。

3.諸行無常

そして諸行無常とは、この世界に現れて見える「形体」は、心の「感受、想起、形成、認識」作用によって水泡のように「現れては刹那的に消える」ことを示し、それは「実際には存在していない非存在である」ことを示している訳です。

あるいは、この世界に現れて見える「形体(分別された個体)」は、心の形成作用によって現れた「言葉と印象」による観念が投影された陽炎のようなものであり、それは「実際には存在していない虚像である」ことを示している訳です。

そしてブッダ、あるいは聖典は、非存在である[虚像]を、実際に存在する【実在】と誤解していることを「無明」と説き、苦しみの根本原因であると説いているのです。

無明とは?

『ヨガ・スートラ』第2章5節

無明とは、無常、不浄、苦悩、非我に関して、常在、清浄、安楽、真我であるとする見解をいう。

1.無常を常在とする見解

『ダンマパダ』第20章277節

諸行は無常であると智慧によって観照するとき苦しみを離れる。この道が心を清めるための道である。

これはブッダが「諸行無常を如実に観照することができれば涅槃に至る」ということを説いた句です。

2.不浄を清浄とする見解

『ダンマパダ』第1章7節

(諸行による個人的な虚像世界を)清浄であると見なして暮し、感覚器官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠惰で、不精。悪魔はそのような者を制圧する。風が弱い樹木を倒すように。


『ダンマパダ』第1章8節

(諸行による個人的な虚像世界を)不浄であると見なして暮し、感覚器官を抑制し、食事の節度を知り、真理の教えを信じ、精進している。悪魔はそのような者を制圧できない。風が岩山を倒せないように。

これはブッダが「諸行は不浄であるとする見解に従って暮らしなさい」ということを説いた句です。

『ダンマパダ』第13章171節

さあ、この世界を見てみよ。荘厳に飾られた王の車のような世界を。愚かな者はそれに夢中になるが、智慧ある者にとっては(泡沫、陽炎と同じであり)、執着(するような魅力)はない。

真っ白な画用紙が多種多様な色を塗られ汚されるように、清浄な真実に多種多様な色を塗って汚しておるのが観念なのじゃ。


真実が汚れておるのではなく、観念が汚れなのじゃ。


注意するのじゃ。例え、どれほど美しく彩られた色形に観えようと汚れじゃ。それは人を苦しみにつなぎ止める鎖に過ぎぬのじゃ。

『ダンマパダ』第24章350節

(諸行による個人的な虚像世界は)不浄であることを観察する修練をし、いつでも心意を客観的に観照し、思考が静まることを楽しむ者は、この悪魔の結束を断ちきり、それを終わらせるであろう。

これはブッダが「諸行不浄を如実に観照することができれば涅槃に至る」ということを説いた句です。

3.苦悩を安楽とする見解

『ダンマパダ』第20章278節

諸行は苦悩であると智慧によって観照するとき苦しみを離れる。この道が心を清めるための道である。

これはブッダが「諸行苦悩を如実に観照することができれば涅槃に至る」ということを説いた句です。

4.非我を真我とする見解

『ダンマパダ』第20章279節

諸法(あらゆる対象)は非我であると智慧によって観照するとき苦しみを離れる。この道が心を清めるための道である。

これはブッダが「諸法非我を如実に観照することができれば涅槃に至る」ということを説いた句です。

智慧と観照

智慧によって観照するとは、心(自我)による認識ではないことを示しています。眼が眼自体を観察できないように、心は心自体を観察することができません。

心を観照するもの、それが智慧であるとブッダは説いています。つまりブッダの説く「正念(観照)」は、智慧の発動であり、それは事実を客観的に知り、虚像を見破る力そのものだと言うことです。

観照者

『ヨガ・スートラ』第1章1節

これよりヨガを解説する。


『ヨガ・スートラ』第1章2節

ヨガとは、心の作用を止滅することである。


『ヨガ・スートラ』第1章3節

心の作用が止滅されたとき、純粋観照者である真我は自己本来の態に留まることになる。


『ヨガ・スートラ』第1章4節

その他の場合では、真我は、心の色々な作用に同化した姿をとっている。

心を越えて観察している存在は【純粋観照者】と呼ばれ、それこそが【常在、清浄、安楽、真我】であると、聖者、聖典は説いているのです。

観照者と心

『ヨガ・スートラ』第2章17節

観るものと観られるものの結びつきこそが、除去すべき苦の原因である。


『ヨガ・スートラ』第2章24節

この結びつきの原因となるのは無明である。


『ヨガ・スートラ』第2章25節

従って、無明がなくなったときには、観るものと観られるものとの結びつきもまたなくなる。これが除去というものであり、観るものの独存位である。

ここでの観るものとは「観照者(真我)」のことであり、観られるものとは「心(自我)」を示しています。

天上天下唯我独尊(独存)

ここでブッダは、目に見えるすべて、耳に聞こえるすべて、鼻に香るすべて、舌に味わえるすべて、身体に感じるすべて、つまり心に知られるすべてのすべては存在しておらぬと説いておるのじゃ。


心に形成されるコレやアレ、ココやソコ、あなたや私、誰も何も、時間も空間も、存在してはおらず、分別はないと説いておるのじゃ。


そして心を超えた彼方に在る【私】は【私】であり、あなたは【私】であり、


ただ【私】だけが独り存在しておると説いておるのじゃ。それが【真実】であり、それだけが【真実在】なのじゃ。

天上天下唯我独尊


次の雑記

雑記82

参考にした文献

ブッダの真理のことば・感興のことば

ブッダの真理のことば・感興のことば

■著 者:中村元
■発売日:1978年1月
■値 段:1,111(税込)/岩波文庫


解説ヨーガ・スートラ

解説ヨーガ・スートラ

■著 者:佐保田鶴治
■発売日:1983年8月
■値 段:1,980(税込)