2019年9月3日投稿

No.13  自己

自己

基礎と奥義、粗雑と精妙、身体(からだ)と心意(こころ)、そして部分と全体。基礎が身に付いたなら奥義も身に付き、粗雑が調うなら精妙も調い、身体が動くなら心意も動き、そして部分が変わるなら全体も変わる。何故なら、実質的に区別、部分などという様なものは無いからじゃ。単に名前と形体により区別され、部分が在るかの様に見えておるだけであり、実際には全体が変わり続けておるだけなのじゃ。詰まる所、実質的に個は存在しない。物事は<ひとつ>の流れが自然(かって)に起こる。個とは大河に流される一片(ひとひら)の葉の如く、その本源へと運ばれてゆく命の現れじゃ。そして、実質的には独りが存在するのみであり、何も起こってはおらぬのじゃ。

ヨガへの道を進みゆく者は、個人とは自己(みなもと)へ帰る運命にあると覚悟(さと)り、来るを拒まず、去るを追わず、急かず弛まず、堅実に成長してゆくが良いのじゃ。



♨ 偽の自己

人は誰も皆、名前(なまえ)と色形(かたち)により区別された曖昧な観念を、自分自身じゃと認識しておる。それが個人であり、自我とも呼ばれる虚偽の自己なのじゃ。じゃがしかし、個人とは心の作用により認識される記憶の集合であり、常に変化し続ける空虚な情報であり、電気的信号の点滅と言っても良い程じゃ。意識内の何処を探そうと、決して変化せぬ実体としての「私」など居(お)りはせぬのじゃ。
 
私は誰々だ。私は身体だ。私は何月何日に生まれた。私は誰々に育てられた。私は何々大学を卒業した……などと。疑い無く信じておるそれらもまた、何の確証も持たぬまま信じ込んでおる記憶(もうしん)に過ぎず、誕生日に関しては聞き伝えに信じ込んだ記憶(もうしん)じゃ。記憶と己とを同一視し、意識内に浮かんでは消える単なる思想観念を己だと信じておる限り、忌み嫌い怖れ避ける事と好き好み欲し求める事、粗略と粗暴、怠惰と遊戯の間を、不安定に動揺し続けるじゃろう。



♨ 真の自己

真我とも呼ばれる真実の自己は、心の作用により認識される曖昧な観念などではなく、何一つ変化する事無く常に同じで、実体であり、生まれる事も消える事も無い。誕生とは「私は色形(からだ)だ」という観念の生起を示しており、死とは「私は色形(からだ)だ」という観念の消滅を示しておる。じゃが、真我は観念を越えておる故生死を越えており、ソレは天上天下唯我独尊として永遠に在る。

おぬしがソレなのじゃ。

おぬしは何一つ汚れの無い純粋そのものじゃ。生まれては消える観念が汚れなのじゃ。汚れを己だと信じさえしなければ、それで十分なのじゃ。それだけじゃ。それだけの事なのじゃ。それだけで汚れは、おぬしから分離してゆくのじゃ。盲信が束縛なのであり、その不信こそが、苦痛からの解放なのじゃ。


さあ、自己へと帰ってゆきなさい。