はじめに


▦ ヨガを学ぶ


ここは、ヨガを学ぶ空間です。

ヨガとは、私は心でも身体でもないという事実を自覚することであり、それ以外の何か、ではありません。この目的を見失った何かをヨガと呼ぶべきではありません。この目的を見失いつつ瞑想しようが、壮美な体位をとろうが、300年生きようが、空中に浮遊しようが、それらはまったくヨガとは関係ありません。

私ではないものを私ではないと自覚することにより、私自体を自覚すること

ヨガ行法とは、その目的のために、注意の焦点を内側に向け、常在する「私=意識=気付き」のある状態を保つー修習ーであり、それ以外の何か、ではありません。それがヨガ行法の<すべて>です。この行法を理解したのなら、もう他には何を学ぶ必要もありません。これこそがヨガ行法であり、それ以外はその補助に過ぎないからです。

この行法を実行しうる「能力」を育むための聖典であり、この行法を実行しうる「能力」を育むための聖者であり、そしてまたこの行法を実行しうる「能力」を育むために、人生経験があると言えるのです。ここでいう「能力」とは、ヨガ行法を実行しうるだけの「関心=欲望」のことです。気付きを保つことほど重要なことは、人生にない。何故なら、それが人生の目的ーヨガーへ向かう王道だからです。

複雑化 ⇒ 単純化

「私=意識=気付き」は、人生を秩序化する力そのものです。「気付き」は、複雑化により煩わしく矛盾し合った心の作用を単純化していき、人生を滞らせる無力感、暗愚、妄想、怠惰といった「鎮静的停滞」と、焦燥感、執着、渇望、努力といった「興奮的活動」の二つを、人生を円滑に流す「均衡的調和」へと導き、最終的には単純そのものである単一純粋な<私>へと導きます。

苦しみたくないと願いつつも、無意識的に自ら苦しむことを選択し続けるのが、世俗に住まう人々です。この苦しみの連鎖から抜け出したいと真に願う稀有な人は、本当の「ヨガ」に出会い、その教えを学び、熟考し、理解し、人生で苦しみを選択することを止めていきー離欲ー、そして<私>へと留まる道ー修習ーへと邁進するのです。

私は、心でも身体でもない。

ヨガは、この知的な自覚から始まり、この自覚に終わるのです。